お時間です

生き延びがち

無限列車編初見でドボンの感情書き殴りと鬼滅考察

初回感想

※ふせったーにもFilmarksにも書いたやつそのままです。

10月18日、公開から3日目、初見の感情。

 

 

帰宅した父に「自己犠牲の話?」と聞かれて「違うんだよな…己を犠牲にしてはいけないと分かっている男がそれでも未来に託す物語なんだよな…」と返した鬼滅映画帰りのオタク。

 

 

原作未読。

アニメだけ一周済み。

鬼滅ファンというほどでもない人間が、ツイッターやpixiv等で見かける姿で「あ〜、この人に"落ちる"んだろうな」となんとなく察していた男、煉獄杏寿郎。映画版鬼滅の刃、無限列車編。

観てきました。

 


マスクがぐちゃぐちゃになりました。

同行者の友だちに事前に「マスクの替え持ってったほうがいいから」てアドバイスもらっててよかった♪

よかった…よかったな……。

「いうて泣きはせんやろ」と括っていたタカ、元気?

元気少ないね。

人生において「タカを括っていい瞬間」なんてないんだよね、煉獄さん。

 


漫画読んでないので知らなかったんですよ上弦が来るなんて。

下弦消滅・列車崩壊時点で「え、なんとなく煉獄さん死亡編だとおもってたけどワンチャンセーフなんか?!」てぬか喜びしました。

あとで同行者にそれを言ったら「アニオリで生存ルートやと思った?」て煽られました。思ったッッッッ、、、、、思いたかったッッッッッッッッ、、、、、、、

アカザ(漢字分かんないですまた調べます)はいい鬼だね。強さに素直で。強さを愛してて。強さに誠実で。

でも煉獄さんはダメだよ。

煉獄さんはこれからずっと必要な人。

アカザ自身が言っていたようにもっと強くなってもっと輝く人だったんだよ。

でも煉獄さん自身は引かなかったね。

もちろん200人の人間と傷を負った後進たちの前で引くわけには行かなかったよね。

でも、煉獄さんは「引けない」のではなく「引かない」男だった。

自己犠牲に見えるそれは、しかし後ろに炭治郎たちがいるおかげで全く違う様相を呈していた。

煉獄さん自身、自分が「ここで死んでいいような人間」ではないと分かってたでしょう。己の強さを知るからこそ、己の死がどれほど鬼殺隊に影響を与えるかも分かってたでしょう。

それでも命を賭したのは、自己犠牲なんかじゃない。

善逸が、伊之助が、そして炭治郎がいたから。

『人より強い自分が果たすべき責務』を受け継ぐ子らの存在が在ったから。

未来に、炭治郎たちに託せると思ったからなんですよね。

だから煉獄さんの行ったことは確かな意思と遺志と覚悟の継承であって自己犠牲ではない。

彼は誰も、自分をも犠牲にしなかった。

なんて強い人なんだろう。

そんな彼が、炭治郎の前で膝をつき、静かに満足気な笑顔を浮かべるシーンでもう。もう。

心が叫んでた。

「『答えは得た」顔すんじゃねーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」(同じユーフォだね)

個人的な話で恐縮なんですが、私はくだんの「答えは得た」男に執着してるので、煉獄さんのあの笑顔は映画館じゃなきゃぶっ倒れてた。泣くとか越えてた。泣いてたけど。

そして母上に見守られて、破顔して、未来を信じて逝った。

ありきたりな言葉だけど、なんて強く清らかで美しい人だったんだろう。

己を信じ、子らを、炭治郎たちを、未来を信じてこの世を去った、炎。

鬼滅の刃、無限列車編。

ありがとうございました。

 


LiSAさんの「炎」の歌詞はエヴァQの桜流しに匹敵するやつですね。映画本編と補完し合う重要なファクター。

出会って、繋がって、そして未来のために手を離した彼らの悲しみと覚悟の鎮魂歌。

ぜひ https://youtu.be/4Q9DWZLaY2U で聴いて欲しいです。かじゆきも歌詞に関わってるので脳の中枢に効きます。

最後のLiSAさんの想いも含めてぜひ。

 

 

 

 


以下、論文風考察。

 


無限列車編初見日に煉獄さんにドッボンズブブでその日のうちに漫画全巻買い揃えて読み終えて2ヶ月。

文学部出身、あほほど論文書いてきたクセでいろいろ書きたくなっちゃいました。

突貫文章の自己満足。

まだまだ書きたいことあるけど最終巻前に上げたくて…

 

1.日輪刀


太陽-昼=善/闇-夜=悪

まず初めに、日輪、太陽は「正しさ」の象徴という前提を提示する。

旧約聖書の『創世記』冒頭では、「むなしく、やみが淵のおもてにあった」ために神は「光あれ」と宣った。

ここで、闇に対するものが光であり、夜と昼が相対するものであると明確になる。

また、宗教哲学においても太陽信仰はコンスタンティヌス帝によりキリスト教に連なる精神を持つとされ、至善なるものとして受け入れられた。

そのようにして、太陽、昼が善なるものとされるに従い、闇、夜は悪しきものという構図が定着してきた。

 

吸血鬼と鬼

太陽を厭い、血肉を食い、不老不死だが急所(首)を断たれると滅びる等、鬼の特性は吸血鬼のそれに近似するため比較がたやすい。

そして、他者の命を奪うという償えない罪を犯してきた鬼と吸血鬼の両者は、前項で述べた「太陽-正しさ」のもとでは生きていけない。

しかし日輪刀で滅された鬼の中にはなぜか邪悪さから解き放たれ、浄化されたようにも見えるものもいる。

日輪刀はその名の通り「日輪(太陽)」の役割を果たし、鬼に罰を下すと同時にその闇を祓い、浄化をももたらしているのではないか。

特に、上弦の鬼やネームドで描かれる鬼の出自は「正しい道では生きられなかった弱者」であることが多い。そのため、日輪刀で斬らることで浄化、「赦し」を受けることができたと言えるのではないだろうか。

本来、罪を断つことができるものとして「罰」と「赦し」があるが、太陽の性質を持つ刀である日輪刀は「罰」と「赦し」の両方を与えることができる。

アーレントは「罰は、介入しなければいつまでも続いてしまいかねない何事かに終止符を打とうとする点で赦しと共通している」としている。

つまり、「罰することができるものは赦すこともできる」と言い換えられる。

日輪刀は鬼の首を断ち罰することで永遠に続くであったであろう鬼の悪徳に終止符を打つと同時に、赦しをも与えていたと考えられる。

しかし、デリダは「赦し得ぬもの」、とりわけ「アウシュヴィッツ」といった人道に対する罪は罰することすらできないものとした。

そしてこの「赦し得ぬもの」を赦すことこそが真に人の手を離れた純粋な「赦し」であるとし、アーレントの条件的な赦し、罰することができるもののみが赦され得る、という定義を批判している。

デリダのいう「無条件的な赦し」によって「赦し得ぬもの」たり得る鬼舞辻無惨は赦されるのか。

それとも日輪刀は鬼舞辻に罰と赦しを与え、アーレントの言うようにその罪を断ち切るのだろうか。

あるいは、アーレントデリダの赦しをも超えて、赦しも、罰をも授かることなく無惨に終わりを迎えるのだろうか。

最終巻を読むのが楽しみです。

 

2.鬼と鬼殺隊

 

表裏一体

吸血鬼は血を求め、鬼は人の肉を食らうという違いはあるが、実は食人という行為は聖なる行為とタブーの両方の性質を備えている。

キリスト教には「聖体拝領」というものがある。

エスの血とされるワイン、肉とされるパンをいただく聖餐である。

一方で吸血鬼や鬼はそのまま人間の血や肉を口にする。

ここで、聖なる祭祀と化物の悪行が重なって見えてこないだろうか。

それは鬼舞辻無惨率いる鬼たちと鬼滅隊にも当てはまる。

鬼舞辻は鬼を作り、その中でも上弦と呼ばれる鬼たちは「正しい行いでは生きていけずに行き場を失った」ところを鬼舞辻に勧誘され、さらに悪行の道を進むこととなった。

しかし同時に、産屋敷に連なる鬼殺隊の隊員の多くも行き場を失い、鬼と戦うことでしか生きていけない者たちである。

特に階級の低い隊士の多くは準レギュラーとして登場する隊士「村田」のように、鬼に親類を殺され鬼殺隊に入った経緯が多いと推察される。

現代でも政府が自治を放棄したような福祉の機能しない場所では、親や大人の庇護を失った子どもの保護を担うだけの能力を持つのが軍隊だけである、ということがままある。

前述は紛争地帯に特に見られる傾向であり、鬼滅の刃の舞台である大正時代にも児童保護といった社会的なセーフネットを求めるのは難しい。

鬼舞辻の元に「正しく生きられなかった者」が集まったように、産屋敷によって「普通(家族や住む場所がある状態)に生きられなくなった者」が兵士としての庇護を受けている状態はまさに背中合わせである。

ここで煉獄杏寿郎とアカザのやり取りに注目したい。

「鬼になろう、杏寿郎」と誘うアカザ。

「何があっても鬼にはならない」と言い切る煉獄。

力は強く、しかしその力を正しいことに使う道を奪われ鬼になるしか生きる道のなかったアカザと、力は強く、そしてその力を正しいことに、人を守ることに使う道が既にあった煉獄。

彼らもまたコインの裏と表であり、環境というものによってlight(光、正しいもの)とleft(闇、残されたもの)に分かたれたに過ぎない。

 

「状況による」

最後にNetflixオリジナルアニメーション『ミッドナイト・ゴスペル』第1話「王の味」から。

ゲストで中毒医療のスペシャリスト、ドリュー・ピンスキー医師の言葉を引用する。

彼は大麻や薬物の使用についてのインタビューにこう答えている。

「良い薬とか悪い薬とかいう考え方は嫌いだ」

「薬は化学物質で良いも悪いもない」

「問題なのは人間と薬の関係性だよ」

「状況によるのだ」

 


そう、全ては「状況による」のだ。

「薬」を「力」に置き換える。

「力」はただあるもの。

ただそれだけで、良いも悪いもなく、ただそれが発揮される「状況による」。

煉獄が力を振るう状況、アカザが力を振るう状況。

ただその違いがあるだけだったのだ。

 

 

 

参考文献

・奥堀亜紀子「『赦し』とは何か:無条件的な赦しは必要なのか」2015 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81009413.pdf

新田一郎「<論説>コンスタンティヌスと太陽宗教」1963 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249684/1/shirin_046_1_105.pdf

市川ひろみ「冷戦後の戦争と子どもの犠牲」2014 http://lib.kyoto-wu.ac.jp/opc/recordID/handle/11173/1647?caller=xc-search

 

 

 

蛇足

最後に特装版パンフレットについてきたドラマCDの感想です。ネタバレです。

 

 

 

煉獄さん、「父と弟と、母の墓参りに行きたい」ていう夢が、あったんだね…。

当たり前だけど、彼自身が彼自身の人生を生きていく未来があったんだよね。

誰に託すことのない、彼だけの人生が。

「後輩を守るのは当たり前」「若い芽は摘ませない」なんていってたけど、20歳だったんだよ煉獄さん。

貴方も、成人はしてるけど、十分に守られるべき、未来を享受すべき人だったんだよ…。

 


先日見た映画『罪の声』で印象的な台詞があったんです。

「大人の都合で子どもの人生が狂うんです」

鬼殺隊の子どもたちは正しいことができた。

それでも鬼と戦い、傷つき、死んでいき、生き残ったとしてもその人生はもう「戦う前」には戻らない。

大人は、どんな大義があろうと子どもを利用してはいけない。

他人の、ましてや子どもの人生を道具にしてはならない。

それだけは、絶対に超えてはいけない一線であると、いち読者として忘れないようにと。

 

『フェアウェル』生きるために、生かすために嘘をつく

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『フェアウェル』を観たのはちょうど1ヶ月前になります。

だいだいだ〜い好きなオークワフィナが主演と聞いて、去年からずっと楽しみにしていました。

オーシャンズ8』『クレイジー・リッチ・アジアンズ』の2作の女優としての彼女しか知りませんが、そんなんど〜でもいいっしょ!てぐらいの気合いで好き。

彼女の演技は最高。

どこがいいかと訊かれると、作品ごとに違うんですが、共通点を挙げるとするなら「自分の人生にいて欲しい」ような存在感。

あとラッパが彫られた右二の腕も大好き。

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そんな、私の中に置いてある「最高」の椅子に座り続けているオークワフィナが一旦その椅子から降りて、その場にあぐらをかいてこちらを見つめてくる、そんな映画『フェアウェル』。

 


あらすじ

主人公ビリー(彼女がオークワフィナで、幼い頃にアメリカに両親と移住している)の祖母の"ナイナイ"は末期癌で余命告知をされる。ところが本人には一切そのことは知らされない。

それを知るのはアメリカや日本に移住した親戚一同と医師のみなのだ。

彼らは癌のことを必死に隠し、ナイナイに優しい嘘を吐きながら、みんなでナイナイとの最期の時間を過ごすため、ビリーのいとこであるハオハオ(日本に移住している)の結婚式を急遽中国で執り行うという計画を進行させる。

ハオハオの結婚式のため、という建前で、親族がナイナイのために中国に再び集まることになるのだ。

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レビュー、というか私の話。

この作品は重層的で、「死を看取る」こと、「家族とは何か」、そして「カルチャーギャップ」の三つの要素がそれぞれ複雑に絡み合い、物語を紡いでゆく。

今から書くのは、一つ目の「死を看取る」ことになります。

正直私の心のデトックスになってしまうので、悲しい話は読みたくない、という方はここでおさらばしましょう。

ええ作品やで!ほんまに。

「アジア人(アジア系)」の、「女性監督」が撮ったこの作品が世界中で多くの人の共感を得、そして高く評価されたこと。そんな、意味と意義のある作品なので、ぜひ映画館でじっくりと観て欲しいです。

ではさよならの人、さよなら!

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※以下はかなりパーソナルな話を交えるので色々脚色します。

 

 

 

祖父が亡くなりました。

今年の初めから、「腹が痛い」と言い出した祖父。

コロナのこともあってあまり見舞いにも行けず、かといって過度に心配することもなく、私はのんびり仕事に行ったり映画を観たり。

ただ、普段から頑固で強がりな祖父が苦しいと訴えるので、両親が何度も様子を見に行って、そうこうしているうちに入院することに。

私は「良かった」と思いました。頑固で病院嫌いの祖父が入院なら安心だと。

でも、末期癌でした。

入院した祖父にはコロナ対策で会いに行けず、それはそうとして、まだ家にいた間にすら一度も様子を見にいかなかったこと。

祖父の死に対する後悔はこの一つです。

会える人には会っておく。

これ、すごく大事なことです。

人生の試験に出ました。

 

私、嘘を吐く

祖父の死は悲しく、寂しいものですが、もっと大きな後悔が、「嘘を吐いていた」ことです。

祖母は認知症で、物事がもうあまりよく分からないので、私の両親は祖母には祖父のことを詳しくは伝えていませんでした。

ただ、夫が入院して寂しい祖母からの電話を、深夜に一度だけ取ったことがあります。

父の携帯にかかってきていたのですが、祖母からだったので寝ている父を起こすのも忍びなく、勝手に応対しました。

祖母は「一人で寂しい。よくわけが分からない。早くお父さん(祖父)に帰ってきて欲しい」と30分ほど辛そうに話していました。

私はそれに「大丈夫やで、前もインフルエンザで入院したやん。すぐ戻ってくるから大丈夫。不安やんな、でも大丈夫やからな」と答えていました。

嘘です。

取り乱す祖母を落ち着かせるために、また両親からも身重の姉と祖母には詳しくは伝えないようにと言われていたので、「おじいちゃんは大丈夫」なんて嘘を吐きました。

姉に対しても「私もよう知らへんねん」と話していました。

嘘の積み重ねが祖父が亡くなるまで続きました。

それは、すごく短い間でした。

 


おじいちゃんが明日死ぬかも知れんのに、誰に何をいうでもなく普通に会社に行く自分。祖母や姉に嘘を吐く自分。

今でも現実味がなく、急に死を知らされた祖母や姉に対しては後悔を抱えています。

『フェアウェル』では本人を苦しませないようにナイナイの余命を知っている親族がナイナイに嘘を吐くことで苦しみを自分たちで背負い、それが中国では良いことだと、優しい嘘だとされていると語られていました。そして同時に、優しい嘘に相反する欧米の自己決定権についても話されていました。

私は圧倒的に後者を支持しています。自分のことは自分で決める権利があると強く思っています。

主人公のビリーもそうでした。

それでも私は、どうしてか祖母や姉に祖父のことを告げることができませんでした。

これが「直面する」ということだったのだと今では思います。

私は「自分は冷静で、基本的には正しい判断ができる」と思っていましたが、頭では分かっていても論理的に動けない場面がどうしてもあるのだと、この「嘘」を通してようやく思い知りました。

 


『フェアウェル』は、人のために吐く嘘が本当にその人のために、そして自分(たち)のためになるのか、というテーマをもはらみます。

相手の苦しみを軽くするため、傷つけないための嘘があるのは事実で、作品の最後には驚きの事実が判明します。

それでも、どんなに優しい嘘であれ苦しみを取り除く手段にはなり得ない。

嘘を吐く方か、吐かれる方か、どちらにせよ嘘で包んだ苦しみを抱える人がいる。

そんな優しい嘘を吐くのか、吐かないのか。

優しい嘘が正しいことなのか間違ったことなのか。

「直面する」まで分からない。

そのことを覚えておきたいな、と思った作品でした。

 

 

 


私のメンタルデトックスを最後まで読んでくれた人、ありがと〜ございました。

 

 

 

 

追記:「見送る」ことについて

祖父の死は寂しいものですが、たくさん働いてたくさん食べて呑んで、たくさん説教して逝ったので、祖父がこの世を去ったこと自体に痛みはありません。

呼吸器が外された病院で、ボロボロに泣いてたくさん惜しむことができたことも理由だと思います。

お葬式ではどちらかと言うと、ショックを受けている姉や祖母の介添えをしたり(前述の通り両親や私のせいで急に、なので)、喪主である父の手伝いをしたり、一生懸命祖父を見送る準備をしました。

つるつるの頭に触って、手を握って、お花をたくさん詰めて。

精一杯のお別れができた、それが今、祖父との思い出を悲しみで曇らせていない理由だと思います。

 


「一生懸命送ろう」と思うようになったのは約7年ほど前からかも知れません。

大学時代、友だちがひとり、亡くなりました。

急死でした。

自分の将来の目標のために運動や食事に気を遣い、勉強でも真面目すぎるぐらい真面目に取り組み、そしてお洒落や遊びも徹底的にこなす人でした。

私と遊ぶ時も事前に「私と行きたい場所マップ」を手描きしたり、誕生日プレゼントの袋を私の好みに合わせて手作りしたり、私含め、たくさんの友だちのことを、家族を最大限に大事にする人でした。

 


仲の良い共通の友人と

「最近あの人と連絡取った?」

「いやそういえばLINEしてないわ」

「授業出てないんやって」

「風邪かな〜。ほなレジュメ取っといたるか」

「うわ〜あの人のレジュメにメモ取るのレベル高いな…授業寝れねえ…」

「ほんまそれな。連絡ついたらお見舞いでも行こか」

なんてLINEをした数日後に亡くなっていたことを知りました。

映画を観終わって、さあ家族と合流してご飯いこか〜と開いたLINEを読んで声を失いました。

LINEで訃報を教えてくれた、上記の友人とは別の友だちに連絡の感謝を伝えて、家族と合流した後のことはもうよく覚えてません。

 


彼女に最後に会える日、その当日に訃報知らせてくれた友だちから「今日が彼女と会える最後の日だけど来る?」とLINEが来たんですが、なんとその瞬間は全く関係ない高校時代の友だちと遊ぶために移動している途中でした。

服装もラフだし、急だし、でも…。

と、迷ってる間に集合場所につき、遊ぶ予定だった友だちの顔を見た瞬間、アホみたいに泣き出してしまいました。

いきなり友だちが泣き出してびっくりしてる相手に理由を説明していると、最初に心配しあっていた友人から電話がかかってきて、その安堵にまた咽び泣きながら「一緒に彼女に会いに行こう」と話をつけました。

一緒に遊ぶ予定だった友だちには「用事済ませてくるから2時間ぐらい待ってて」とお願いしました。

今もずっと「なんで???」と思ってます。

その日は解散したら良かったじゃない…と思います。

ただ、たぶん、心の整理が全くつかなさすぎて、混乱して、「友だちと遊ぶ」という"通常の予定"だけは狂わせたくなかったのかなと、なんとなく思います。

友だちはメチャクチャ優しいので「分かった。待ってるから行ってらっしゃい」と送り出してくれました。

そして例の「一緒に行こう」と電話をくれた友人と合流し、式場で彼女に会いました。

 


部屋はご両親が「堅苦しいのは嫌だから」とすごく明るくて、彼女が好きだった曲が流れてて、ものすごく柔らかい空間でした。

でも、「最期に見てあげてください」と言われた私は頭が真っ白になってました。

以前一緒に遊んだ時に「似合う似合う!」とはやして、本人もすごく気に入ったと言って購入したワンピースを着ていたらしいのに、どうしても見ることが出来ない。

棺を覗き込んで、目は開いてるのに、硬直して何も見えてないような感覚でした。

そのあとは長居しても、ということでご両親と少しだけ話をして、友人と辞しました。

帰り道は友人と悔しい悔しいと泣きながら歩き、途中で別れ、私は元の駅に戻り待たせていた友だちと普通に遊びました。

やっぱり今でも「どういうスケジュールやねん」と思います。

でも、当時は受け止められなさすぎて、日常を取り戻したかったのかなと思う以外ありません。

 


後悔は、彼女をちゃんと見送れなかったことです。

「見てあげて」と言ってもらえたのに、一緒に買った服を着ていたのに、最後だったのに、どうしても彼女の姿を目で見て、覚えてあげられなかったことです。思い出せないことです。

今でもそのことを思い出すと悔しくて、情けなくてどうしても涙が出ます。

たった一つの後悔ですが、10年近く経とうとする今でもそのことが乗り越えられないでいます。

もし、あの時ちゃんと見送れていたら、今オリーブを見ても(おいしいオリーブのお店に連れてってくれる予定でした)、一緒に行ったお店屋さんに行っても泣きそうにならずに済んでるのかな、とも思います。

 


彼女の見送り以降、どんなに悲しくても辛くても、亡くなった方のお顔をしっかり見て、触れるなら触って、たくさん声をかけてお別れするようにしています。

祖父の葬送の時も、一生懸命見送ったという自覚があるからこそ、「悔しい」という気持ちはないのかも知れません。

 


いろんな人を見送ってきた個人的な経験則からのアドバイスですが、「どんなに辛くても頑張って一生懸命お見送りした方がよかですよ」です。

 


それでも耐えられない、乗り越えられないこともあるけどね。

 

 

 

追記:終わり

 

 

 

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トイレで文字書け!

ブログの下書きを整理してたら色々見つけました。

「台湾に行ったらネコにゲロ吐かれた」

「魚を食ったら骨が喉に刺さって『死ぬ』と思いながらトイレで泣いた」

 

そして、今から供養する

「トイレ。人類の果て」

 

以降はブログにもなれなかった文字列を、まさに水に流す作業です。

当時の世情、風俗、価値観を維持する観点から書いた当時(2018年8月24日)の下書きから一切加筆修正をせずにお送りします。

 

 

 

 

 

「トイレ。人類の果て」

私、トイレが好きなんです。

便器はもちろん、便器を取り巻くお手洗い(トイレ)と言う空間まで視野を広げると、これまた好きです。

 

急になんの暴露?と思われるかもしれませんが、意外とトイレ好きは身近にいると思います。

 

普段外出していて催したとき、一番近くには公園の公共トイレしかない。

もう少し我慢すればスーパーのそれなりに掃除が行き届いたトイレがある。

もっと我慢すれば百貨店や高級ブティックの、自室よりも雅な照明とモダンなソファー、綿棒やマウスウォッシュといったアメニティーまで完備されたおトイレがおありあそばされる。

それらの選択肢が頭に思い浮かび、その中から理性でもって"選択"を行なったあなたには、もう十二分にトイレ愛好家の素質があります。

なぜなら本来、催しという生理現象のまえには選択肢などなく、"解放"への最短距離しか本能は示さないであろうはずだからです。

膀胱は点P(現在地)から点Q(トイレ)を結ぶ最短距離を求めよ、と言っているのに、点Qが気に入らないからといって点Rを勝手に作り出す。

そんなことを入試で行えば、稀代の天才かただのあんぽんたんですね。

しかし、トイレにおいては許されるのです。

 

 

 

 

「ハンドルを握らずアクセルを踏み込んだら車体がバウンドしてエンスト」を別の形にするとこの文章になるんでしょうね。

 

 

 

 

以上、2019年の記事が4本しかなくてゾッ…としたので稼がせてもらいました。

 

 

 

2月は3本書くぞい♪♫

 

HiGH&LOW THE WORSTを観てジェラルド・バトラーからチャニング・テイタムになった話

はじめに

このエントリは、いつも本~当にお世話になっているmy dearestはとさん主催のぽっぽアドベントに寄稿させていただきます。

担当は12月12日。

よろしくお願いします。

アドベントの共通テーマは「私が動かされたもの」。

動かされたのが心でも、価値観でも、自身の存在そのものでもよい、ということで、では私は何にどう動かされたかというと。

「HiGH&LOW THE WORSTによってジェラルド・バトラーからチャニング・テイタムに動かされた」

である。

ハ?かと。もしくはア?かと。

ご存知の方が多いとは思うが、ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムもハリウッドの第一線で活躍中の俳優。

点Pでも点Qでない。

ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムの間を秒速15cmで動く謎の点Aの話はしない。

これから私の「映画の見方」の話をする。

ちなみにだが、HiGH&LOW THE WORST自体については、今回はあまり多くは語らないでおく。

まだドラマを走っていないので…

推しジャンルに対して縮地をしたくないなって、アタイ、これでもオタクだからさーーー・・・

 

ところで、『エンド・オブ・ホワイトハウス』と『ホワイトハウス・ダウン』という作品をご存知だろうか。

概要を説明をすると、両作とも「テロリストに占拠されたホワイトハウスから大統領を救出する」というのがメインストーリーで、なんと、奇しくも同じ2013年に公開された。

もうこの情報だけでおもしろくないですか?

今なお

どっちがどっちの映画だったかわからん」

「1年に2回も占拠されるホワイトハウスのザル警備は泣ける」

ホワイトハウスちゃんかわいそう」

「俺のエアジョーダン」

といった喜びの声が聞かれるこのふたつの作品。

実は、決定的な違いがあった。

それは

「『着る』ジェラルド・バトラー

「『脱ぐ』チャニング・テイタム」。

ひらたく言うと、物語が進むにつれて主人公ふたりの装いが逆ベクトルに変化していくのだ。

 

「着る」ジェラルド・バトラー

エンド・オブ・ホワイトハウス

元護衛官(大統領のボディーガード)の主人公マイク・バニングジェラルド・バトラー)は、とある事情からシークレットサービスの任から解かれ鬱屈とした日々を送っていた。しかしそんな折、ホワイトハウスをテロリストが襲い、大統領以下閣僚数名ががとらわれてしまう。使命に突き動かされたバニングは単身戦場と化したホワイトハウスに乗り込み、鍛え上げられた戦闘スキルをいかんなく発揮。その残忍なまでの無双ぶりはテロリストと観客を恐怖と狂乱に突き落としていく。

 

この主人公バニングジェラルド・バトラーだが、ホワイトハウス入り口では丸腰なのである。なにせ護衛官を退き、オフィスワークに従事していたので。ところが、このビフォーとアフターをご覧いただきたい。

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before

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after

 

アフター、重武装である。裸一貫(ほぼ)で突入したはずのジェラルド・バトラーが、いつの間にか重課金済みのアバターと化している。何が起きたのか。

このジェラルド・バトラーは、倒した敵から武器一式をどんどん収集し、テロリストの深部に近づくほどに装備を整えていったのだ。

このドレスアップはまことに見事。銃弾の雨の中歩を進め、殺意フルパワーで襲ってくる敵に立ち向かい、相手を倒すごとに経験値を得てアイテムを増やしていくジェラルド・バトラー

その姿は、日々さまざまな課題に向き合い、課題から新しい知見を得、他者の理論の上に己が見解を組み立てる私たちの姿に重なるところがある。

銃ではなく文字を打ち、ナイフではなく思考で物事を切り分け、装備ではなく参考文献を携え目的地を目指す。

私たちは文系のジェラルド・バトラーだったのだ。

そして実は、「映画を観る」という行為も、ジェラルド・バトラー的なムーブに繋がる。

映画を観るとき、私たちは映画を観る。当たり前体操。

ただ、それだけではなく、映画を通してその映画以外のものごとにも、意識・無意識にかかわらず視線が向く。

それは、自身の実体験だったり、それまで観てきた他の作品であったりするが、まるっとまとめると、それまで培ってきたありとあらゆる価値観と知識。

この監督のことだから、このシーンは社会へのメッセージだな、とか。

この演出は宗教と照らし合わせるとまったく別の意味になるな、とか。

社会は今こうだから、この映画はこういう見方ができるな、とか。

映画そのものがどれっほど架空のものであろうと、「映画を観る」のは私たちでしかないので、実は「映画だけを観る」ということはかなり難しい。

というよりむしろ、私たちが映画を観て泣いたり笑ったり怒ったりするのは、まぎれもなく私たちに経験や知識、ひっくるめて「人生」があるからだ。

なので、知識や経験が増えて、人生が豊かになるほど、映画を観るパワーも上昇していく。

まるで、徐々に武装していくジェラルド・バトラーのように。

ゆくゆくは私たちも大統領を救うのだろう。

 

「脱ぐ」チャニング・テイタム

ホワイトハウス・ダウン

元軍人のジョン・ケイル(チャニング・テイタム)はシークレットサービスになりたい。なぜなら愛娘が大統領の大ファンだからだ。そんな娘をホワイトハウス見学ツアーに連れて行き、彼女が政権に対して嬉々として意見を述べる姿を見守っている最中、突如として爆破テロが発生。その騒動で逸れてしまった娘を探すなか、テロの標的となった大統領を守るというミッションを偶然課せられてしまうのだった。

 

チャニング・テイタムである。

マジック・マイク』はご覧になっただろうか。

下画像参照。

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脱いでいる。

男性ストリッパーの映画なので、まあもちろんみんな脱ぐが、チャニング・テイタムはその中でもなかなかに脱ぐ。

着ているところから脱いでいく。

ここで『マジック・マイク』の話をすると宇宙の終焉まで話が終わらないので割愛するが、自己肯定と他者の尊重、「俺もお前もサイコー」という文字では簡単、実戦は困難なテーゼをストリップを通して描き切った傑作であるとだけは記しておきたい。

ちなみに続編『マジック・マイクXXL』はよりサイコーになっている。まれに見る優しい映画です。

話を戻す。

チャニング・テイタムは脱ぐ。

これは、驚くべきことに、『ホワイトハウス・ダウン』でも発揮される彼の権能である。

テロリストが跋扈するホワイトハウスを戦い進む中で、チャニング・テイタムは脱いでいくのだ。

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before

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after

なんで????????

驚くなかれ、最終的にタンクトップになる。

マジでなんで?????????

前述のジェラルド・バトラーは展開が進むにつれ武装を重ねていった。

そのおかげで事実、彼はより戦いを有利に進められるようになった。

チャニング・テイタムは違う。

戦いに身を投じれば投じるほどに、その身ひとつになっていくのだ。

当初着ていたスーツは度重なる爆発や銃撃でいつのまにか失われ、終わりを迎えるころにホワイトハウスに在るのは「チャニング・テイタムとちょっとした衣服」なのだ。

やっていることはジェラルド・バトラーと同じ。

なのに真逆の再臨をしてしまう。

美少女キャラなのか?(ソシャゲでは美少女はレベルアップすると露出が増えがち)

しかし、チャニング・テイタムは脱ぐ、からといって弱体化しない。

普通に強い。

というか、彼自身の能力と装備に一切因果関係がない。

チャニング・テイタムは彼自身の俳優としての魅力、肉体的な説得力、いわば独自の「チャニング・テイタム性」によって強さを保持している。

この「チャニング・テイタム性」はもちろん彼の経歴やトレーニングによって備わったものではあるが、前述のジェラルド・バトラーと異なり、より彼自身の本質に依存するもの。

チャニング・テイタムは先に紹介した『マジック・マイク』でもことさらに脱ぐ。

それはもちろんストリッパーとして女性を性的に喜ばせることを意図した行為。

しかし、チャニング・テイタムが脱ぐとき吹く風は、彼の肉体や精神を消費する空っ風ではない。

「俺は魅力的である。そのことは誰によっても損なわれず、また誰のことをも損なわない」という熱風。

チャニング・テイタムは「脱ぐ」という行為、彼の肉体=彼の本質を曝け出すという社会性の脱衣によって相手と自身に対して最大限の誠意を表現する。

服という「選んだ魅力」を拭い去ることで、自身の内に息づく「選べないがゆえの誠実さ」を露わにする。

チャニング・テイタムは知っていたのだ。

己の中には、その肉体に根差すに本質には、ただあるがまに世界に相対する力があることを。

 

 

十数年かけて私はジェラルド・バトラーになった。

これまでの人生で得た経験と知識で我が身を鎧うことを覚えた。

歴史や宗教を学ぶことで現在を知り、社会の歪さに向き合う力を得た。

フィクション・ノンフィクションに関わらず、対象と相対する手数が格段に増えたことは、まぎれもなく私の人生を豊かにしている。

心底、ジェラルド・バトラーになれてよかったと思っている。

そしてもっとジェラルド・バトラーになっていきたい。

 

そんな、押しも押されぬジェラルド・バトラーになった私の、ジェラルド・バトラーたるゆえんである装備を一瞬にして吹き飛ばした存在。

 

『HiGH&LOW THE WORST』

  

『HiGH&LOW THE WORST』を観た時、最初に私の言語野を埋め尽くしたことばは

「感謝」

だった 。

なんか、すっごいありがたくて、ほんともう、感謝した。

この時代に生まれてこれたこと、映画に携わった人、私が私という形と中身を持つに至ったすべての事象に感謝した。

なぜか。

「おもしろかった」からだ。

脚本がいい、演者がいい、音楽がいい美術がいい演出がいい。

それはようやく落ち着いてきている今だから言えることだ。

観終わった瞬間は、ただ、「おもしろかった」という感情に全身が包まれた。

知識と経験で武装したジェラルド・バトラーは、終幕後の劇場にはもういなかった。

そこにいたのは、感情むき出しで、裸同然の私だった。

私はチャニング・テイタムになっていた。

『HiGH&LOW THE WORST』を観て、私はチャニング・テイタムになったのだ。

 

 

ここでこの作品の内容について語るのは、冒頭でも述べたように避けたい。

ただ、どんな映画だったのか、それを示さないことには私がチャニング・テイタムになった理由が謎だ。

『HiGH&LOW THE WORST』は、なんというか、素直だった。

「俺は馬鹿だから分からない」という少年がいた。

誇りと名誉をかけた戦いがあった。

戸惑いながら変化を望み、受け入れる青年がいた。

てらいのない友情あった。

かっこいい音楽にあわせたかっこいいアクションがあった。

強さ、かっこよさ、楽しさを自然体で受け入れ、いつしか誰もが笑顔になっていた。

その「誰もが」に気づけば私も含まれていた。

自然体で、笑っていた。

 

知識と経験は、これまで獲得してきた装備は、いつの間にか脱げていた。

その装備は、『HiGH&LOW THE WORST』に必要ではなかったからだ。

というより、『 HiGH&LOW THE WORST』は私になにも求めなかった。

肯定も、否定も、解釈も、何も必要とされなかった。

『 HiGH&LOW THE WORST』は、

「俺たち、最高だろ?」

と無邪気に笑って見せるだけだった。

このときの『 HiGH&LOW THE WORST』の屈託のない笑顔を見つめる私の姿はまさにチャニング・テイタムだったことだろう。

私の中の、理論や知識や経験で鎧うことのできない感情、深層心理、イド、私が私である根本的な性質。

 

『 HiGH&LOW THE WORST』は私に何も求めないことで、ジェラルド・バトラーだった私に装備を下ろさせたのだ。

「タイマン張ろうぜ」とでも誘いかけるかのように。

タイマンに武器は必要ない。

ジェラルド・バトラーはスッとスポットライトから退いた。

代わりに光が当たったそこに現れたのは、むき出しで、素直で、語らない私。

選び、装うことのできない私の「私性」が露わになったとき、チャニング・テイタムとしての私が現れた。

鎧わなくとも、私はただ私として世界と相対することができる。

知識や経験がなくとも、何かを楽しみ、ただ愛することが、私にはできる。

そのことを思い出した瞬間だった。

私は、チャニング・テイタムだった。

 

 

おわりに

私はチャニング・テイタムになった。

しかし、それはジェラルド・バトラーではなくなったということを意味しない。

知識と経験を装備し砂塵の中を進むジェラルド・バトラーでもあり、また同時にそれらを脱ぎ捨て「私」と「世界」を裸で対面させるチャニング・テイタムでもある。

そして、チャニング・テイタム的なジェラルド・バトラーにも、ジェラルド・バトラー的なチャニング・テイタムにもなれるのだ。

なぜなら、武装する私も裸の私も、一本の線で結ばれたまぎれもない「私」だからだ。

そこで打ち明けるが、私はこの記事の中でひとつだけ嘘を吐いた。

ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムの間を秒速15㎝で動く謎の点Aの話はしない」

冒頭で述べた謎の注釈だ。

しかし最後にあえて撤回したうえで、こう結論づけよう。

私は、ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムの間を秒速15㎝で絶え間なく動き続ける「点A」なのだ、と。

 

 

 

「HiGH&LOW THE WORSTを観てジェラルド・バトラーからチャニング・テイタムになったと思ったら実は点Aだった話」

 

 

 

 

 

 

就職の利点、それは退職できること。

お久しぶりです。

 

ところで、「大人になる」のと同じぐらい「ブログを続ける」 のって難しくないですか?

私は数年前に成人していますが、 子どもの頃になんとなくイメージしていた「大人」 になれた自信が全くありません。

未だに郵便局が開いてる時間は微妙に把握できてないですし、 勧誘の電話の断り時が分からない。 それどころか無意味に場を盛り上げようとして契約するつもりのな い保険の掛け金について「詳しく聞いていいですか?」 とか聞いちゃう。

相手の人生に残された貴重な時間をむやみに奪った罪で捕まった人 が行く刑務所があるなら私もそこでオレンジイズニューブラックし ます。

そしてブログも結局半年も放置していました。「まだ大丈夫」「 みんなそうだし」と、転がり始めた石が使いそうな言い訳1位と2 位を考えてたことはここだけの秘密です。

こう見えていつも逃げることばかり考えています。 どう見えてるかは知らないですが。

そんな1ページ目に「退却」の2文字がワードアートで印字された 辞書の持ち主の私ですが、 前職から逃げるのもむちゃくちゃ早かったです。

以降、 やっと本題です。

 

 

別に隠してもいないので詳細を記しますが、2018年4月に新卒で入った会社を同年7月に辞めています。

実労働期間、 数えるまでもなく3ヶ月。3ヶ月て。 赤ちゃんならちょっと寝返りが打てるようになる頃でしょうか。

なぜそんな人生の先っぽを軽くフォンデュしたぐらいの超短期間で退社を決めたのかにもし興味がありましたら以前のエントリをご参照ください。

新卒で入った会社を3ヶ月で辞めた人の話 - キューブログ

まあ、辞めた理由はだいたいこんなもんです。書き出すと

・その仕事をしていく未来が全く見えなかった

・人生を搾り取られる予感がした

・上司たちが口をそろえて「なぜウチに来た」 と今更な忠告をするのが怖かった

・シンプルに仕事内容が向いていなかった

・割と人間関係が火を噴いていた

です。ありきたりですが、積み重なると重たかったですね。 辞めたさの十二単

 

そして退職・転職についてですが、 せっかくなのでよく聞かれる点についてあまり参考にならない私の経験談を開陳します。

内容的に、当時ツイッターなどで頂いたアドバイスを含んでいます。

その節は本当にありがとうございました。 インターネットに生かされています。

 

Q.辞める時に不安はなかったか? 上司に引き止められなかったか?

A. 辞める不安より仕事を続けることの方が圧倒的に不安だったのでそこで迷いはありませんでした。あと、家族や友人が「 もっと別の場所があるよ」 と応援してくれたのでなんとかなりました。

そして、直属の上司は私を一切引き止めませんでした。 もっと正確に辞めたいと打ち明けた時の上司の言葉を再現すると、 「今から一応形式的に引き止めるけど、形式だから気にするなよ。 『もうちょっと頑張らない?』」です。

入社初日にも「俺、 お前が明日辞めたいって言っても絶対引き止めないから好きにしな 」と言われてたので有言実行の頼れる上司でした。

 

Q.一人暮らしだった?その場合、 引っ越しやお金の工面はどうしたか

A.関東に一人暮らしでした。 そして退職を決めた一週間後には関西の実家に戻っていました。 この速さには我ながら驚きです。故郷の吸引力がすごい。

引っ越しに関しては、 会社で家賃のほとんどを持ってもらっていたため辞めてから長居すると出費が大きかったのですぐに退去しました。

家族も帰郷を歓迎してくれた上に、 タイミングの良いことに姉が引っ越しで家財道具を必要としていた ので冷蔵庫や洗濯機を売ることもできました。

もうなんか、 下ごしらえの完璧な退職すぎて私の人生の脚本家はドラマ作り下手だなとすら思います。

あと、 マジで何の参考にもならない気がします…。

 

Q.転職先を決めてから退職した?転職活動はどうやった?

A.ほとんど何も決めずに「死ぬこと以外かすり傷!」 と退職したので、再就職までの約9ヶ月は無職でした。

そのあいだの生活費はもう、ぶっちゃけますと、「 実家ありがとうございます」に尽きます。この間の座右の銘は「 かじれるうちにかじろう林檎と親のすね」です。最悪。

バイトすらしていなかったので交際費は貯金の切り崩しでした。 いやほんとマジで何の参考にもなりそうにないですね…。

転職活動についてですが、 希望の業界が新卒扱いで4月採用だったので、 それまでずっと採用試験を受け続けました。

私の場合、 転職エージェントを利用したのは退職前のお試し相談電話ぐらいで 、転職自体は自力で細々とSPIの勉強や面接の準備をして、 あとはひたすら採用試験を月に3~5個受けていました。つまり、 新卒の就活の時と全く一緒です。

その独りよがりのせいで前回の就職に失敗したのに学ばないねえと は思いますが、 とりあえずは転職できたのでまた反省の機会を失いました。

こうやって私は愚かになっていきます。

愚者の愚(無知の知)。

 

以上、 少ないですがメインどころの質問にざっくりと答えさせていただき ました。

我ながら恵まれた環境での退職と転職で、 ありがたいことだったと多方面に感謝しています。

こんな温い立場から言うのは若干はばかられますが、 転職とまではいかなくとも、 退職は絶対に視野に入れておいた方がいいと思います。 私はいつでもこんなとことを辞めてやるぞ、 という心の準備体操は、 本当の本当にヤバくなったときの瞬発力に繋がります。

そしてあくまで私の持論ですが、 まだ働いてもいない転職先のことで悩むより、 今の障害物を取り除くことの方が何よりも大事かなとも思います。

明日うんこを踏むかもしれないと不安がるより、 今踏んでるうんこをまず拭おう?ということです。

うんこ締めで今日イチ申し訳ないです

 

この文章が何かの足しになれば幸いです。

愛を込めて。

 

観るも観ないも『ラ・ラ・ランド』

こんばんは。

今晩は2017年に人類を

「観て好きな人」

「観て好きじゃない人」

「観ないと決めた人」

「観てない人」

に4分割した話題作『ラ・ラ・ランド』の地上波初放送だそうですね。

私は当時劇場で観ました。

観る前からワクワク(監督デイミアン・チャゼルの前作『セッション』に膝ガックガクにされた経験があるのである種、絶叫マシンに乗る前のような不安と興奮)していたのでハードルは低くはなかったのですが、自信を持って「すきやでおまえのこと」と言える作品です。

私にとっては。

あくまで、私にとっては。

この、「私にとっては(光だけどあなたにとっては闇かもしれない)」という点で、冒頭で述べたように世界を4分割統治したんですよね。

特筆したいのは、監督の長編デビュー作『セッション』との相性が悪かった、もしくは思うところがあった、もしくは『ラ・ラ・ランド』のレビューから察した、等々の理由で「観てない」ではなく「観ない」と決めた人が多く感じられた(当社比)点です。

「観てない」「時間的金銭的余裕がないので観れない」ではなく、「能動的に観ない」という選択肢。

良い、とても良いと思います。

「観ないと損だよ!」なんてことは当然なく、逆に「観ない」という新しい鑑賞方法もあるのだと、私にとっては「エウレカ!」的姿勢でした。

そんな"「観ない」という鑑賞方法"というパラドックスの申し子みたいなものを生み出すpowerが、確かに『ラ・ラ・ランド』にはあったと思います。

その論拠はいろいろあるのですが、まず以下のツイートで。

かこQ on Twitter: "ララランドが結構好きな私とララランドのことがどうしても許せない友だちが話した際、「そのポイントが好き/嫌い」で真逆の方向に分かり合えたので本当にリトマス試験紙みたいな映画ですよ"

同じポイントに心、動かされてるんですよ。

プラスとマイナスの真逆の方向に。

めちゃ…面白くないですかこれ。

友人と喋ってて

「「あ〜!そこ」」

「好きやねん!」「無理やねん…」

なんですよ。

特に友人がムリだった…と手を組んで俯いていたのは、熱く語らっていた"真のジャズ"を一旦脇に置き、商業的な方向へ舵を切ったセブをミアが責める雰囲気になったシーン。

美大に通っていた友人曰く、「表現したいものと仕事/社会に求められるものの間で身を削っている同期のことを思うと、セブを責められないしミアを許せない。映画と現実を切り離して考えられない」。

夢や目標に対して心や体や人生を一度でも傾け苦しんだことのある人、またはそんな人が近くにいる人は、『ラ・ラ・ランド』が描く「夢と現実」をフィクションだと消費しきれないんでしょうね…。

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一つの憶測に他ならないですけど。

「夢を見ていた」というキャッチコピーが鑑賞直後のエブリバデから聞こえてきましたが、本当に素晴らしいコピーですよね。

観た後にこそ、その真の意味を知ることができる、もはやあらすじといっても過言ではないほどに物語の真をついたコピーでした。

最後に私の「チャゼルッッッ!!!!!!おいチャゼルおいッッッッッッ!!!!!!!!」ポイントの紹介です。

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チャゼルの辞書、「徹頭徹尾」とか「徹底的」とかが先頭にあるんでしょうかね。

『セッション』も「完膚無きまで」って感じですし。

怖いよお。

 

『アリー/スター誕生』 生きてこ!話

あけましてるね。

なんか青山テルマのヒットソングみたいな書き出しになったんですけど、実際もう明けに明けきってるから「あけましてるね」が適切だと私は判断しました。

めでたいかめでたくないかは、あなたが決めてください。

 

〜完〜

 

 

で、終わりにしたいぐらい特別何があるわけでもない日々を送らせていただいてるんですが、月一は更新しないと"「続けられなさ」が続けられてしまう"というパラドックスに陥って自我を失い自分をゲイリー・オールドマンだと思い始めそうなので何か書きます。

あれ?裏切りのサーカスに出てましたか?

って言われたいよね。

 

じゃあ何書く〜?

レインボーアートがあれば垂れずに跳ねずに手につかずにカラフルな文章を書けるんですけど。

誠に残念ながらスマホしか手元にないのでモノトーンな話をさせていただきます。

ところで、カラフルだと思ったらモノトーンでびっくりしたものといえば?

そう、『アリー/スター誕生』ですね。

クラークケントでもここまで捻じ曲げられないだろう、ってぐらい話をグニャ〜ッと曲げて強引に導入とさせていただきました。

でもマジで旧『スタァ誕生』を知らずにあのcmだけで観に行った人、あのラストにグニャ〜ってならなかったですか?

私は心身が渦を巻きました。

今でも若干くせ毛が強いです。

ということで、昨年からずっとする書く述べると言っていた『アリー/スター誕生』のレビューをします。

なんてったって、(私の)予想外に賞レースに乗っちゃうなんてめでたいニュースもあるしね。

まあこの"賞レース"ってのが『アリー/スター誕生』での大きな分岐であり、ままならなさの象徴だったりするんですけど。

 

私が比喩によく用いる便利アイテム「飛行機」を採用しながらジャックの選択とアリーの人生を見ていこうかな、つってね。

よく用いるってどこで?と聞かれたら一応こんな感じで

ね。

例えとしては二番煎じなので渋みがあるんですけどユーザビリティが高いということで許してください。

 

 

 

唐突ですが。

イマジン。

想像してごらん。

自分が機長の飛行機、操縦席に座ってるところを。

イマジン。

想像してごらん。

なんかいっぱい手元とか頭上にボタンがあって

「自尊心」

とか

「家族」

とか

「健康」

とか書いてるのを。

それをポチポチ押して点灯させていくとようやく飛べる飛行機。

なのに、「健康」を押しても点かない。

点いたと思ってもすぐ消える。

「自尊心」を押そうと手を伸ばす。

すると、副操縦席に知らずに座っていた誰かが「それは君には無理だよ」と言って勝手に消してしまう。

これじゃあ飛べない。

飛べたとしても自分の望む高度じゃない。

消灯したままのボタンが不安で仕方ない。

 

イマジンした?

じゃあ続けます。

 

アリーは自分の飛行機/人生なのに、「才能」のボタンがビンビンに点灯してるのに、周りの誰か(それは父親の何気ない一言「アリーは歌手にはなれない」だったり、かつてのプロデューサー達の心無い言葉だったり)に消されていく「自尊心」や「夢」のせいで飛びたい方向へは飛んでいけない。

その消灯されてたボタンたちをバチバチバチッ!と点けてアリーと一緒に飛び始めてくれたのが突然現れたジャックなんですよね。

心から信頼し、尊敬し、愛することができる人が隣にいてくれるアリーの喜びは、そのままジャックにとっても自分の隣にアリーがいる幸せになっていく。

ただ、飛び始めたアリーがより高く、遠くまで行くためにはかつては望んでいなかったようなルートを選ぶ必要も出てくる。

飛び続けるためにそれを受け入れるアリーと、一方で思い描いていたルートを外れたことに歯痒さを隠せず、また同時に自身の操縦席のボタンの明かりが消えていくジャック。

ジャックの飛行機は順調に飛んでいるように見えて、実は「家族」のボタンは機能不全を起こして明滅し、そして彼の飛行機の最大の動力源に他ならなかった「歌」のボタンが病によって消えつつあったんですよね。

そこに加えて「アルコール依存」というエラー。

高度を下げていくジャックの飛行機。

理想とは違うものの、高く遠く飛んでいくアリーの飛行機。

ただ、アリーの隣にジャックが座ってくれたように、今ではジャックの隣にもアリーが座っている。

アリーを心から愛したからこそ、ジャックは高度を下げていく自分の飛行機にアリーを乗せたまま落ちていくのだけは耐えられなかった。

アリーの飛行機まで失速させたくはなかった。

それ故の、あの選択。

アリーを置いて、自分自身で操縦桿を下に向ける選択。

ただ、もしジャックの操縦席に、例えば「楽観」や「幼少期の幸福」、「適切なケア」等々の点灯したボタンがあれば、多少高度を下げたとしても飛んでいられたはずだとは思います。

ジャックの死は、物語の中では「スター誕生」のコインの裏のように描かれつつも、本質はとても普遍的。

種類は違えど「自分で自分の飛行機を飛ばせない。人生が重くて背負えない」人は当たり前にたくさんいるんですよね。

今、現実で飛んでる人の中にも「健康」が明滅してる人、「将来」がどうしても点かない人、たくさんいると思います。

それでもみんなどうにか毎日操縦席に座ってえっちらおっちら自分の飛行機を飛ばしてるんですね。

ジャックの死は、スターの悲劇ではなく(その側面はあるとしても)、理解しがたいエゴの結末でもなく、「生きていくことは意外と奇跡みたいなもんだ」という証左。

本物の飛行機だって、あんな金属の塊が飛んでることは奇跡なんで。

ボタンが消えそうになったら他の点いてるボタンに目を向けて。

自分で点けられないなら誰かに点けてもらって。

そうやって奇跡みたいに生きていくしかないんですよね。

 

っていう、アリーとジャック、ふたりの眩しいカップルへのラブでした。

ここまで書いてきたこと全てあくまでラブなんで。

みんな生きてこ。

マジで生きてるだけで偉いから。