お時間です

生き延びがち

SHOHOKU BY THE SEA〜宮城カオルを愛する〜

映画館でTHE FIRST SLAM DUNKを観るたび、スクリーンに映し出される手に汗握るゲームに、ゲームによって浮かび上がるキャラクターたちの細やかな人間性に、途方もなく魅了される。


なのに、なんでかな。

帰りの電車でひたすらスマホに打ち込むのは、ひとりの女性について。


夫であり、子どもたちの父親。そして息子が事故で他界。家族を喪った痛みと恐怖、それでも生きていかなければならない命の重みを抱えて何度も現れる、そんな彼女のことを想わずにはいられない。

映画の主人公である宮城リョータの母親、宮城カオル。

私はこの作品の中で、彼女のことを深く深く、愛している。

少し長くなるけれども、この半年ほどの、Twitterに上げたカオルさんに関わる文章を再掲する。

 

 

 

Twitterログ

2023.1.2

「親」は「親」という生き物ではなく「親」という責任を負ったひとりの人間である、という描写をされると無条件降伏するからTHE  FIRST SLAM  DUNKもこんなに好きなんだろうな。

宮城リョータが主人公だけど、確実に宮城カオルの物語でもある。

耐えがたい喪失を抱えていても「親」という重たい責任を投げ出すことはできず、同時に「子」はその親の苦しみの側で生き続けなければならない。

「家族」というジェンガはあまりに不安定で、思いもよらないピースの欠けで容易く崩れ落ちる。

ただ、崩れた山でもまだピースは重なり合ってる。

家族は祝いと呪いの両義性を必ず持っていて、個人の集合体でありながら他に類を見ない拘束力を持つ。

だからこそ古今東西、「家族」「ファミリー」という概念には憧憬と忌避の視線が注がれ続けているんだろうね。ヤクザやマフィアがその代表かな。

映画の中の「欠けた家族」の表象。

マンチェスター・バイ・ザ・シー』では、自らの過失で子どもを亡くした過去ばかりを見つめ続けて自己憐憫と自己嫌悪の中で立ちすくむ父親。

『スリービルボード』では娘を暴力で奪われたことを過去にしないため、一心不乱に犯人を探し続ける母親。

『THE FIRST SLAM DUNK』では親を、子を、兄を喪い、いびつになった家族がいびつなまま今を生きる姿。

 

宮城カオルが俗に言う「毒親」に見えるなら、もしかしたらそれはその人が今まで、少なくとも家族関係において幸福であったということなのかもしれない。

親に "適切に"愛されることを享受してきたがゆえに、彼女が「親失格」に思えてしまう。

…ということもあるのかもしれない。

 

2023.1.5

宮城家、苗字から察するに本土からの移住じゃなくて琉球の人なんだろうなとか考えるの楽しいけど、どうしても島を離れて移住した先でも砂浜で膝を抱えながら海岸線を見つめ続けるカオルさんを後ろから抱きしめて目元を手でそっと覆いたくなる。


2023.1.8

「あなたは悪くない。運が悪かっただけ」と放逐されてされてしまうと、罪の意識は行き場所を失ったまま文字通り永遠に心を蝕む。

往々にして人は罰されることで自分を赦し得るから…これもTHE FIRST SLAM DUNKの感想です…


2023.1.11

カオルさんがソータのことを考えるとき、必ず海を見るのが苦しいね…海は育む場所でありながらも奪う場所でもある。

命そのものみたいな場所。


2023.1.21

ここ数年は「大人と子ども」の線引きが上手い映画を好んでたけど、それすらも飲み込むような「大人でいることができないほどの苦しみ」を掬い上げる物語が刺さるようになってきており…

『罪の声』も、当時は何も知らない子どもに背負わせた罪の重さを考えてたけど、今は「親でいられないほどの憎しみ」を捨てるこの出来ない苦痛を思ってしまう。フーシー(羅小黒戦記)の憎しみも、宮城カオルの痛みも…


2023.3.17

EEAAO(エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス)の後のTHE FIRST SLAM DUNK、味が濃くなっててウケる(泣く)

ロッカーの「…行ってくる」のシーンで突然「割れたマグカップの破片をかき集めても二度と同じ形にはならないように、壊れた家族もかつてと同じ姿にならない。だとしてとしてもいびつなまま、ひび割れを紡ぎあって、水をこぼしながらでも一緒に歩める」と思い至って号泣してしまい…

「混乱している時ほど優しくならないと」を十数歳にして自然と実践してる宮城アンナに一生こころの柔らかいところを握ってて欲しい

家族を大事にしたいのに上手にそれができない人たちをcure(治療)するのではなくsave(救う・掬い上げる)する物語たちに助けられてる…


2023.3.29

カオルさんがあの状況で住み慣れた沖縄を去ることを選んだの、自分がつらかったのも多分にあるだろうけど、子どもたちが「遺族」として見られることとか、それこそリョータがソータと比べられたりすることを避けたかったのかもしれないな…と思うとカオルさん、深まる…感謝が……

沖縄に住み続けてたらいろいろ気を遣ってもらえたろうけど、「海の事故で夫/父と息子/兄を亡くした」の枕詞が永遠に付きまとうことになってたろうな…


2023.3.30

フェンスの向こうから呼ばれて帰って来なかったソータ。フェンスの向こうから呼ばれて一度姿を消すも「諦めが悪いんだよ」と戻ってきた三井寿。いつしか張ってしまっていたフェンスの向こうで戦う息子に手を伸ばすカオル。フェンスで分けられた彼我を彷徨う者たち。いい映画だな…THE FIRST SLAM DUNK


2023.4.6

だんだんTHE FIRST SLAM DUNKのことを思い出すこと=カオルさんを想うことになりつつある…

子どもたちや自分の心を取りこぼしていることに気づきながらも必死で生きてきたカオルさんに、リョータが渡したことばが「生きててごめん」じゃなくて「バスケやらせてくれてありがとう」で本当に良かった…

リョータとアンナを女手一つで食わせていく親としての責任と、二人の子らを大事にしたい、愛したいという気持ちと裏腹に悲しみが終わらなくて上手にそれが出来ない、宮城カオルという女性の一生を想う…

リョータの自損事故なんて、身内からしたら一発で自傷行為だって分かるじゃん…それをしてしまうリョータの幼さと痛み、兄の自傷を見逃してやれてしまうアンナの不必要なほどの大人びた振る舞い、息子と一緒に悲しんでやれなかったカオルさんの苦しみ…宮城家…


2023.4.29

あ〜〜〜…宮城カオルさん、劇中では一度も涙を見せてないんだ…リョータの病室の前では唇を振るわせるだけ、リョータの手紙を読んでる時も俯いて肩を振るわせて、人前(観客の前)で涙を見せるのは唯一リョータの心象風景の中だけ…

リョータの腕の中でだけ涙を流すカオルさんは、リョータ自身が「恨んでなんかいない。苦しんできた母に、もう堪えずに涙を流して欲しい」という願いの化身だと思うので、リョータの血肉を削り渡すような優しさと愛に俺が泣かせてもらう…

そして心象風景の中ではあれど、自分を許し愛でもって抱きしめてくれた息子を悲しいはずの海辺で抱きしめようとするカオルさん…(恥ずかしくて揺さぶるに止まったけど)

罪はなくとも赦しの物語なんだなTHE FIRST SLAM DUNK


2023.5.2

カオルさんねえ、ミニバスのシーンでも地元のおばちゃんらによくきたねえて労われた時のお愛想の笑顔以外笑っとらんのよな…リョータがゴール決めても虚な顔でソータの影を追ってる…アンナの「リョーちゃんがんばれ!」との対比がつらい

カオルさん自身が「もうこれ以上に頑張りようのないひと」なのでリョータに「がんばれ」と言えるわけもなく。

だからこそ17歳になったリョータからの「バスケは嫌だったよね」「それでもやめろと言わないでくれてありがとう」は、「がんばれ」を言えなくなったカオルさんにとって赦しだったろうな…

アヤちゃんのセリフに乗せられたカオルさんの「行け!リョータ!」は8年間ずっと言ってあげられなかったすべてなんだろうな。

ちゃんとあなたを愛したいよ、大切にしたいよ、だから「行け」…

喪ったことを抱えたままでも、また喪うことを怖がりながらでも、それでも「行け」と言えることは強さだよ…

 

 

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以上ログでした。

 

 

雑感

「生きているのが俺ですみません」

17歳の少年に、子どもに、そんなことを書かせてしまうなんて非道い親だ。

そう断じることは、もちろんできる。


「8年、経つんだね」

息子の誕生日を、亡くした長男の命日から数えてしまう、非道い親だ。

そう判じることも、もちろんできる。


それでも、息子が母に送ることを選んだことばは、「ありがとう」だった。

バスケだけが生きる支えだったと、言外に「生きているのが辛かった」と告白しながら、それでも「バスケを続けさせてくれてありがとう」と。


俺が生きることを支えてくれたのは、あなただよ、と。

 


罪はない。宮城カオルにも、リョータにも。

それでも、「ありがとう」ということばは、"赦し"だった。

リョータ自身にとっては「生きていくこと」への。

そして、宮城カオルにとっては「上手く愛せなかったこと」への。

本来ならば誰も、自分自身ですらも許すことのできない、孤独な「罪悪感」を、赦す。

 


これは、超越した"赦し"の物語。

 


監督・原作者曰く、タイトルの「FIRST」には、宮城リョータの第一歩という意味も込められている。

 


その一歩がこんなにも繊細で、やわく、そして優しいものだったことが、どうしても愛おしい。