お時間です

生き延びがち

【Tシャツ問題】しゃれこうべばかりでいいのか【TPOを考える】

秋めいてきた。

激夏からの激雨でしばらく激萎えだったが、太陽が戻り、日中屋外30度、屋内25度、窓を開ければ風ブワ~!で私ニコ~!になった。

秋と共にやってきた胃腸炎とシンプル風邪を全身にまとわせながら、衣替えを考える。

考えるとともに、ここで一つ解決しておきたい問題がある。

手持ちTシャツしゃれこうべすぎ問題だ。

夏服を衣装ケースにしまい込む前に、一度しゃれこうべたちを陳列することで現状を再確認したい。

そして今後の着飾り活動についても検討していきたい。

 

ほんとうにしゃれこうべが多すぎるのか?

多すぎたとして、今後しゃれこうべではないTシャツを購入していくべきか?

あるいは手持ちのしゃれこうべを手放していくべきか?

しゃれこうべTシャツのTPOとは?

 

考えるために、さっそく手持ちのTシャツを開陳していく。

 

しゃれこうべTシャツ紹介

〇The Misfits バンドTシャツ しゃれこうべ度★★☆☆☆

しゃれこうべ度は低めのTシャツ。

私は知らないバンドのTシャツを着るタイプの人間だ。

というか、好きなバンドのTシャツはどこか照れくさくて着れない、変な自意識がある。

このミスフィッツTシャツはただルックの良さで気に入ってきている。

しゃれこうべというよりスカル風メイクという風合いなので、そこまでTPOを選ばない気がする。

 

〇The Misfits バンドTシャツ しゃれこうべ度★★★☆☆

ミスフィッツTシャツ2枚目。

ミスフィッツは聴かないけれど、ミスフィッツのグラフィックデザインは好きなのかもしれない。

頭蓋骨(と骨ハンド)が半分見えているのでしゃれこうべ度は1枚目より少し高い。

とはいえ、グロテスクというよりはダークの範囲に収まっている気がする。

墓参りとかでなければ着てもいいのでは。

このあたりから、私のTPOの感覚があいまいになり始める。

 

〇ハーレーダビッドソン トリプルスカルTシャツ しゃれこうべ度★★★★☆

言わずと知れたハーレーダビッドソンのTシャツ。

トリプルスカル&ウィング。三つのしゃれこうべと羽。

そこまでグロテスクではない。

どちらかというと「かっこいい」スカルではあるが、これまでよりリアル寄りのしゃれこうべなうえに、三つもある。

パッと見、小ぶりなカタコンベだ。

嫌な人は嫌かもしれない。

このあたりから病院への着用をはばかり始める。

すでにつらい人たちが集まっているであろう場所で、死後を連想させるのは本意ではない。

 

〇アンダーカバー DEAD HERMITS Tシャツ しゃれこうべ度★★★★☆

アンダーカバーの2019SSのTシャツ。

アンダーカバーの「退廃・アンニュイ・アングラ」な雰囲気が好きでたまにアイテムを購入している。

このTシャツは古着屋で入手して愛用しているが、しゃれこうべ度は高い気がする。

ハーレーダビッドソンのトリプルスカルとどっこいのリアル寄りグラフィックだが、ハーレーよりも眼窩が暗い。鼻腔も暗い。

頭部に月桂冠を頂いてはいるが、このしゃれこうべの生前を想起させて、むしろ寂しさが際立つ。

牡丹を噛んだところで、いぜん厳然としたしゃれこうべだ。

クールなデザインに漂う寂しさが気に入っている点ではあるが、全体的に死を連想させるパワーがあるので、これも通院着には適さないだろう。

ただ、月桂冠は古代ギリシャの勝利の証、栄誉の象徴なので、このしゃれこうべの持ち主は堂々と着られることを望むかもしれない。

 

〇 IRON MAIDEN バンドTシャツ しゃれこうべ度★★★☆☆

聴かないバンドのTシャツ第三弾、アイアンメイデン。

調べたところ、The Trooper という曲のジャケットデザインで、クリミア戦争で起きた悲惨な戦いをモチーフにした楽曲が由来のイラストらしい。

しゃれこうべ度は低いが、それゆえ生と死のはざまの生々しいグロテスクが感じられて、他のTシャツより恐ろしさがある。

舞台も戦場であり、他のしゃれこうべたちにあるのが「死後の静寂」だとすると、このTシャツはあまりに血なまぐさく、騒々しく、悲しい。

これまでのカラッとしたしゃれこうべたちに比べるとジトっとしており、よりTPOを選ぶかもしれない。

食事に行ったとき、テーブル越しの相手がこれを見続けなければいけないのだとしたら、ごめんかもしれない。

 

※次のデザインはグロテスクなビジュアルが苦手な方にはだいぶキツい可能性があります。

 

 

 

〇 SLAYER バンドTシャツ しゃれこうべ度★★★★★

こりゃあかん。

スレイヤーのソルジャーヘッドデザインのTシャツをリメイクしたノースリーブ。

このバンドもまた聴いてはおらず、調べたところなかなか過激なテーマ性があるようで、まあ調べなくても過激ではあることは察せられる。

眼球がまろび出てしまうと、急に悪趣味の域に達してしまう。

あと、しゃれこうべが棒に突き刺さっているのも露悪的で、公共性は格段に低くなる気がする。

購入したときはそんなに気にしていなかったが、年を重ねるにつれ公共意識というものも強まり、着用する機会も減っている。

とはいえ、クールだわね、と思って購入したデザインではあるので手放しがたくはある。

先日急いでいた時に咄嗟に着用してしまい、家族に「あらまあ」というリアクションをされたので、コレクションアーカイブにする方が良いかもしれない。

このTシャツがふさわしい場面は、今のところ私の生活では発生しない。

いわんや病院・会食をや。

 

 

しゃれこうべじゃないTシャツ紹介

しゃれこうべTシャツが多いとはいえ、もちろんしゃれこうべじゃないTシャツもいくつか持っている。

比較のため、ざっと紹介する。

 

〇ナイキ SOLE FOOD Tシャツ

友人から頂いたナイキのかわいいグラフィックTシャツ。

フロントの胸あたりには肉まんみたいなキャラのロゴがある。かわいい。

SOLE FOOD(スニーカーのソールとソウルフードをかけた造語)のラインがあるらしく、「デカいTシャツ好きやったよね?かわいいからあげる」とプレゼントしてもらった。

書いてこなかったが、これまでのTシャツも大体XL~3XLぐらいのビッグシルエットだ。

Tシャツはデカけりゃデカいほどかわいい派だ。

 

〇メゾンキツネ DRESSED FOX Tシャツ

メゾンキツネの態度のデカいキツネのTシャツ。

この態度のデカさがいいよね。

手持ちTシャツの中でもフォーマルな部類に入る、貴重な一枚。

 

〇スターウォーズ COME TO THE DARKSIDE Tシャツ

この夏、ハワイに行っていた母が「ハワイのスーパーにスターウォーズのTシャツあるで!どれがいい?これでいい?これにするで!」と買ってきてくれたTシャツ。

マンダロリアンにハマり、マンドーとグローグーのグッズを集めている私のために選んでくれたのだが、まさかのダークサイド勢ぞろい。

しかし、綿100で柔らかな手触り、手持ちが3XLばかりのなかでコンパクトなMサイズと、かなり痒い所に手が届くアイテムで使い勝手はGOOD。

ありがとう、母。

母にも「この子はダークサイド柄が良かろ」と思われているのは、しゃれこうべTシャツの数からしてもさもありなんかもしれない。(送られてきた写真には、他にもルークやトルーパーなどのレジェンズ柄もあった)

 

総評

しゃれこうべTシャツ:6着。

※うち一枚はノースリーブだがTシャツリメイクなのでカウント。

しゃれこうべじゃないTシャツ:3着

これが多いのか、意外と少ないのかは、他人のしゃれこうべTシャツカウントを聞いたことがないので分からない。

が、私の手持ちグラフィックTシャツにおける比率は高い。

グラフィックTシャツ以外は無地のユニクロUTがほとんどなので、無職の今、着る機会はあまりない。

それゆえ、この夏はしゃれこうべに頼り切っていた。

全部古着であるため手入れに気を使う必要がないのと、サイズがXL~3XLとゆとりがあるので熱を逃しやすいのがメリットだ。

デメリットといえば、やはり「他の人が見たらいい気分じゃないのかもな~」と薄っすら思う点だが、世の中にスカルデザインはあふれているので気にしすぎないでもいいのかもしれない。

もちろん眼球がまろび出たり、内臓が零れ落ちていたりするグラフィックはTPOを考えるべきだと思う。

とはいえ、これ以上しゃれこうべTシャツを増やす理由もない気はするので、現状を維持しつつ、よれ始めたしゃれこうべたちの後継を担う、しゃれこうべじゃないTシャツを探していくべきだろう。

 

おすすめのデカいグラフィックTシャツがあれば、ぜひ教えてください。

かわい~!って言いに行きます。

 

☆今欲しいTシャツ:プラネットハリウッドの黒いや~つ

さまざまなエース、跋扈す。のさばっていこう。【Aスペクトラムという安全地帯について~アセクシャル編~】

※「社会と生産性とアセクシャル」の項では希死念慮や自死についての記述があります。また、杉田元国会議員の同性愛者への差別発言を取り上げています。

子宮頸がん検診を毎年受ける処女

子宮頸がんの検査を毎年一回受けている。

5、6年前から月経困難症(生理のたびにのたうち回りながら世界滅亡を願う)の改善のためにクリニックに通い始め、ピル歴ももう後輩指導を任せられる中堅社員ぐらいになった。

一ヵ月1シート3000円、診療代や検査代など年間諸々合わせて生理のために5、6万円程度かかっていた高級人体から、ジェネリックへの切り替えによってそれまでの半分ほどの値段で維持できる高燃費人体となって久しい。

それでも半年に一回の血液検査は欠かせない。

ピルは血栓症のリスクを高めるし、そもそも私の家系には「血の塊が血管を詰まらせてしもたンゴねえ」な人々が多い。

そのため、股間からドロドロこぼれる血液だけでなく、おのれ身体をぐるりと巡る血液を人一倍気にかけてやらねばならない。

そして、冒頭の通り、子宮頸がん検診も欠かせない。

子宮頸がんは、文字通り「がん」だ。

子宮の入り口にできるという。

あ~~~~ん、怖い。

しかし、定期的な検診が早期発見につながり、重症化を防ぐことが可能だ。

また、主な発症原因は性交渉によるHPVウイルスの感染によるとのこと。

私は世代的に無料でHPVワクチンも接種しているので、HPVの感染と病変化のリスクも下げられている。

最高!

日本の保険制度最高!

これを読んでいるあなたも定期的な検診や、男女問わず(移すリスクも移されるリスクも減る。すご。)のワクチン接種に行こう!!!*1

・

・

・

ただ、一点気になることがある。

「子宮頸がんのほとんどは、主に性交渉によって感染するHPVが原因」

研究データ曰く、子宮頸がんの発症の9割以上が上記の原因に由来するものだという。

なるほどね、と思った。

性交渉、したことないけどね、と思った。

でもまあ、わずかでも可能性があるなら検診しとくのがいいよな、と思った。

そう思いながら、ちょっと調べてみた。

性交渉の経験がない場合は、子宮頸がんが発生するリスクは極めて低く、検診を受ける必要性はこれまで示されていません。

問診の際に性交渉の経験による検診の必要性について説明されますので、受けるかどうかを相談することができます。

子宮頸がん検診について:[国立がん研究センター がん情報サービス 一般の方へ]

おっと、話が変わって来たぞ。

もちろん、先だって述べたように子宮頸がんは性交渉以外での発症リスクもあるため、まったくの無駄だったわけではない。

ただ、さまざまな医療機関のサイトを見ると

「不要とは言い切れないけど、性交渉未経験なら心身の負担が大きいから必須でもないよ」

とされている。

クソーーーーー!!!

正直、心身の負担はバカクソでかい。

下半身露出のプーさん状態で股をおっぴろげるのは屈辱的であるし、痛みも伴う。

であればこそ、私は医師に強く主張するべきであった。

私には性交渉の経験がないと。

「やっぱりね、異性との触れ合いで幸せホルモンが出るからね」

「出産のときの痛みってのは我が子への愛を増幅させるからね」

という医師の与太話に私が真摯に耳を傾けているからといって、性交渉と出産を前提に私のことを診ないでくれ、と。

 

さまざまなエースたち、伸びやかに

私はアセクシャルである。

他者に性的な惹かれを感じない、という解説が広く知られているが、簡単に言うと

他者とのセックスや性的な行為を望まない

ということだ。

アセクシャルを自認する人々を指してエース(ace)と表記することがあるので、以降も「エース」を使用する。

エースであるところの私は、他者との性行為・性交渉を望まない。

エースであるところの私は、それゆえ性交渉に及んだことがない。

私の身体に備わっている女性器や子宮は、おそらくこの一生を終えるまで、備わった機能を発揮することはないだろう。

それでも、私に女性器と子宮が存在する限り、”肉体の役割を全うすること”への期待や要請のまなざしからは逃れられないのかもしれない。

「まだそういう人と出会ってないだけかもよ」

「それはあなたの強い思い込みじゃないのか」

これはエースだけではなく、アロマンティックやレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなど、マイノリティたちの多くが耳にタコができるほど聞かされてきたフレーズだろうと思う。

異性が苦手なの?

何かトラウマがある?

そういうのがかっこいいと思ってる?

まだ精神的に未熟なのかもね。

などなど、見たり聞いたりしたUワード(うんざりワード)は数多い。

もちろん、私のように心底どうしようもなくエースであるとしか言いようのないエースもいるだろうが、実はエースもそれぞれに異なる。

【Aスペクトラムという安全地帯について~アロマンティック編~】でも書いたが、エースもスペクトラムの上にある。

性的な話題を好まず、性嫌悪も内包するエース。

性的な話題を忌避しないが積極的に好むこともなく、とはいえ他者への性的惹かれを感じないエース。

性的な話題を好むが、だからといって他者への性的惹かれを感じないエース。

エースを自認するものの、必要な場合は性交渉に応じるエース。

私が知るだけでも、エースの在り方はさまざまだ。

そして同時に、そのさまざまなエースたちは「アセクシャル」というアイデアにたどり着くまでにさまざまな混乱や葛藤があっただろうと思う。(もちろんスッと違和感なくアセクシャルであると自認することもある。)

「性嫌悪が行き過ぎただけなのかも」という自問。

「性的な話題や行為に興味を持てないのはまずいのではないか」という焦り。

「こんなにエロい話が好きなのに自分は望まないなんてあるのか」という違和。

「相手が喜ぶならできるし、子どもが欲しいからできる。やりたくはないけど」という矛盾。

自分は正しくアセクシャルなのだろうか?

これは、私のかつての命題だ。

今はもうほとんど思い悩むことはない。

なぜなら、エースのスペースが存外に広いこと、あるいは”広いということ”を認めることが、私の呼吸を楽にしたからだ。

だからこそ、私はA-spec、Aスペクトラムという概念を支持したい。*2

誰も「エースである私/あなた」をここから追い出しはしない。

同様に、無理やり引きずり込むことも、引き留めることもない。

つまり、「セックスを断ってしまった自分はアセクシャルであるべきなのか」

なんてことで悩まなくたっていいということだ。

性的同意や性的惹かれにも当然グラデーションがある。

「はちゃめちゃにセックスしたい」

から

「普通にセックスしたい」

から

「望んではいないけど、相手が喜ぶならセックスできる」

まで、”イエス”にもレベルがあって、当然それはアローセクシャル(性的惹かれを経験する人)にとって当然の感情のグラデーションで、侵害されるべきではない。

要は、セックスを望まないこと=アセクシャルではなく、アセクシャルというスペースがしっくりくるかどうか、なのだ。

 

※次項では希死念慮や自死についての記述があります。

また、杉田元国会議員の同性愛者への差別発言を取り上げています。

 

 

 

 

 

社会と生産性とアセクシャル

私はいまや自身のセクシャリティで悩むことはない。

それでも、先に述べた”肉体の役割を全うすること”への期待や要請のまなざしにはほとほと困らされている。

「子どもを産んでおかないと将来困るよ」

と言われたとき、本当に困惑してしまった。

子どもがいないと私が老いた時や病気になったとき、助けてくれる人がいないという。

私は、「それはあほほど収めている税金で広げられた社会保障というセーフティーネットの役割では?」と思っている。

当然、いま社会全体が貧しく、脆く柔いセーフティーネットになっていることは承知している。

それでも、それがこの社会で生きるすべての人との約束である限り、守られるべきであると信じている。

なにより、子どもは「望まれて生まれてくる尊い個人」ではなかったのだろうか。

貧しくなった国で望まれる子どもの役割が、転ばぬ先の杖、社会保障制度の代替品であるならば、私はただ悲しく思う。

また、こんなことを言われたこともあった。

「生産性がないって言われるよ」

これにはプラプラ生きている楽観的エースである私も、「お、ほな死んだらええかな」と思った。

正直、今でもバイオリズムが乱れているときに思い出すと「まー、世のためにならんので死ぬか」という希死念慮がわく。

生産性がない、というのは、とある元国会議員が同性カップルを指して放ったセリフである。

同性カップルは子どもを授からないので、生産性がなく、そんな彼ら/彼女らに税金を使う必要はないのではないか、という趣旨の暴言だ。

そしてこの暴言は、アセクシャルであり、性行為も生殖も望まない私に対しても贈られた。

生産性がない。

当時、まだ今ほど面の皮も厚くない20代前半、ふにゃふにゃだった心にこの言葉は鋭く、生きていく意思を失うには十分だった。

ただ、この「生産性がない」という指摘も、言うなれば「社会に奉仕するための身体」を供出せよ、という馬鹿げた提言であることは、今となっては自明だ。

私たちは、社会保障制度、ひいては国家を存続させるための身体的資源ではない。

私たちを存続させるための社会保障制度であり、国家であるはずなのだ。

どんなに日本が、世界が貧しくなろうと、ここがひっくり返ることは決してない。

制度より、国家より、私たち一人ひとりが先にある。

私たちは、つよいのだ。

 

 

のさばっていこう。跋扈、跋扈しよう。

「生産性」という言葉は、本当にどうも正しく聞こえる。

子どもを産むこと、職能に秀でること。

それ自体は疑いようもなく素敵なことだ。

でもそれは、社会のすばらしさではなく、あなただけの素晴らしさだ。

どうか社会に、伸びてくる無数の手にかすめ取られてしまわないで、と願う。

そして同時に、意味もなく、生産性も将来性も目的もなく、私たちは生きることができる。

セックスしたりしなかったり。

恋を経験したりしなかったり。

私たちはただ生存するだけで、あとに続く(かもしれない)人々の道を作っていける。

それはけっこう、素敵なことだと思う。

 

 

 

*1:

www.shikyukeigan-yobo.jp

*2:「Aスペクトラム」については【Aスペクトラムという安全地帯について~アロマンティック編~】で詳しく触れている。

honmaka-sayoka.hatenablog.com

俺は雰囲気でラブソングを聴いている。【Aスペクトラムという安全地帯について~アロマンティック編~】

*はじめに*

ラブソングは私のことを歌わない

ラブソングが好きだ。

Back Numberのアルバムを無限ループして

「幸せとは星が降る夜とまぶしい朝が繰り返すこととちゃうよなあ」*1

と頷くこともあれば、

招待すらされていない元カレの結婚式に押しかけて

『おめでとう。でも、愛は続くかもしれないし、あなたをめちゃくちゃに傷付けるかもね』

という壮絶な言祝ぎ(ことほぎ)を贈るAdelの「Someone Like You」を聴いてはウヒョー!と震えあがっている。*2

恋は、すごい。

だれしもを詩人にするし、だれしもを呪詛師にもする。

古今東西、その歴史の一端は、恋の爆発的なエネルギーによって大回転している。

これはきっと確かなことだ。

もしカエサルとクレオパトラが恋に落ちなかったら、なんやかんや歴史が変わって私がこの世に誕生していなかったということもあり得る。

もし恋が無力であれば、ロミオとジュリエットが毒をあおることもなかったろう。

「ま、お互い家のこともあるし、ね」

「そー、だね」

「じゃ、まあ、そういうことで」

こんなもんが悲劇の金字塔になろうはずがない。

とかく、私は恋のパワーを信じているし、愛している。

恋がひとを臆病にさせたり、大胆にしたり、寂しがらせたり、強くしたりすることを、途方もないことだと思っている。

そして、その途方もない「恋」というものが、私のもとに訪れることはきっとないのだろう、ということも知っている。

恋。恋愛。ロマンス。

私が経験することのない「恋」という巨大で強大なそれは、巨大で強大であるがゆえに、まるで普遍のイデアのように振る舞う。

社会の中にある人間ならば、当然経験するものだと信じられている。

成熟した心身を持つならば、当然あった方がよいと信じられている。

人間なら誰しも当たり前に恋をするものだとずっと思っていた

宇多田ヒカル「初恋」*3

恋をして恋を失った方が、一度も恋をしなかったよりマシである

アルフレッド・テニスン(詩人)

であれば、恋をしないことは人間性の欠如なのだろうか。

であれば、恋のない人生は、恋のある人生に比べて劣っているのだろうか。

であれば、獣であるところの私は、うだつのあがらない、しょーもない人生を送るのだろうか。

 

な~んて。

思ってないない。

こればっかりは、生まれた時代に感謝している。

先人*4が開いた道の上を、手探りではあるものの、不自由なく歩かせてもらえる僥倖に感謝している。

恋をしない人もいる。

こんな単純で、だからなに?という一つのアイデアが、私をいま、間違いなく生かしている。

 

Aスペクトラムという安全地帯

「Aスペクトラム」を説明する前に、Aスペクトラムが内包するメジャーな二つの性的指向(どのような対象に好意を持つか)を示しておきたい。

  • Aromantic(アロマンティック):恋愛的惹かれを経験しない
  • Asexual(アセクシャル):性的惹かれを経験しない

かなりざっくりした説明になってしまったが、私個人の実感に即しつつ、まあこれ以上でも以下でもないな、というところだ。*5

この二つの頭文字「A」が「Aスペクトラム(A-spec)」の「A」だ。

では、「スペクトラム」とは何か。

これが大事。めちゃくちゃ大事。

「スペクトラム」とは

境界線を引くことのできない/連続性がある/グラデーションのある

という状態を指している。

つまり、「Aスペクトラム」は「アロマンティック」「アセクシャル」というそれぞれの性的指向には、広い、本当に広~~~~~~~~~い幅があって、無理に境界線を引いたり、そこにいる者同士で押し出し相撲をする必要はないんすよ、と示してくれているのだ。

何が言いたいかというと、私や、今これを読んでいるあなたが

「自分はアロマンティックかも」

「自分はアセクシャルかも」

と思ったとき、その考えが自分にとって”心地が良い”、”しっくりくる”と感じられる限り、誰も私やあなたをこのスペースから追い出すことはできない、ということだ。

「あなたはアロマンティックなんかじゃなくて、まだ恋しい人に出会ってないだけ」

とか

「セックスができるなら、あなたは完璧なアセクシャルではない」

とか、そういったバカバカしい指摘や指図を受け入れる必要はない。

私やあなたがどのような居場所で安息を得るかを、他人が勝手にジャッジする権利はどこにもありはしない。

いうなれば、「Aスペクトラム」というアイデアは、なぜか他人の在り方をジャッジできると勘違いしている人々や、どうしても境界線を引きたい人々にとっては不快かもしれないが、私のようなグラデーションの上をプラプラしているaroace(アロマンティック・アセクシャル)にとってまさしく安全地帯なのだ。

もし、あなたが

「ちゃんとしたアロマンティックじゃないのかもしれない」

「正しいアセクシャルである自信がない」

と悩んだり、悩まされているのなら、いったんこのスペースに気軽に身を置いてみるのもいいかもしれない。

もし違和感があったり、あなた自身の変化によってこのスペースが身に合わなくなったのなら、出ていくことだってできる。

アロマンティック・アセクシャルを含む、Aスペクトラムの傘の下にある様々なアイデアは、誰にも忠誠を求めない。*6

ただ、居心地がいいと感じられるかぎり、大きな傘の下でうろうろしながら悩みの嵐が収まるまで過ごせばいい。

もちろん、永遠に居続けることだってできるのだ。

 

ロマンティックなアロマンティック

私はかなりロマンティックなアロマンティックだ。

ベッタベタなラブソングを好んで聴くし、ベッタベタなロマンスも大好きだ。

ただ、どれも自分事として実感することはほとんどない。

お気に入りのラブソングをカラオケで歌ってあほほど泣く、みたいなことはするが、それは実体験と重ね合わせてのことではない。

単純に、その心情描写にエモがって泣く。

GO!GO!7188の「ララバイカウントダウン」なんて、目の前に破局を迎えた二人が見えるようだ。*7

カフェのテーブル席に向かい合い、サーブされたほかほかのラテが冷めるまで無言で佇む二人。

もう自分のことが視界にも入らない相手に、最後のわがままを飲み込んで「さよなら、もう離してあげる」と告げる。

情景と心情がオーバーラップする「冷めたラテ」「やけに遅く進む時計の秒針」という詩に、毎回鼻の奥がツーンとなる。

でも、別にこんな経験はない。

付き合ったこともなけりゃ、別れ話をしたこともない。

この歌詞に投影できる自己はない。

ただ、その詩の抒情、表現の豊かさに感動して泣く。

同じように、物語におけるロマンスも、自分事としてはメロつかないだけで、表現が巧みであればあるほど他人事としてメロつくことができる。

また、コンテンツでなくとも、素敵な人物にメロつきだってする。

当時あこがれていた同級生が隣のクラスにいると思うだけで「なんかいい気分♪」であったし、たとえば今はドラマ『マンダロリアン』シリーズの主演、ペドロ・パスカルに指ハートを送りまくっている。*8

そのため、

「アロマンティックなのであれば、ロマンスを忌避するだろう」

というのはかなりの誤謬を含む。

もちろん、ロマンスそのものを好まないアロマンティックもいるかもしれない。

一方で、私のように自分事ではないロマンスを好むアロマンティックや、フィクションにのみ惹かれを感じるアロマンティック*9もいる。

アロマンティックであっても、どのような形でか恋愛と関わりを持ちながら生活する人は多いだろう。

その関わりを指して

「あなたは正しいアロマンティックじゃない」

「実は恋愛に興味あるんじゃん」

などと指差されたら、無視するか、その指を曲がらない方向に曲げればいい。

また、もし仮に

「アロマンティックなのであれば、ロマンスを忌避するだろう」

という指摘に一理を与えるとしたら、ロマンティック・ラブ・イデオロギーに対しての忌避かもしれない。

ロマンティック・ラブ・イデオロギーというのは

「誰もが恋愛をし、そののち結婚するのが自然で素晴らしい」

という価値観だ。

恋愛は必ず結婚というゴールを目指さなければならないし、そのためにこそ誰もが恋愛をするべきで、それが自然である。

という、心底あほらしい考え方だが、まだまだどんなコンテンツでも健在なのが現実だ。

少年漫画の最終回では、なぜか登場人物たちが突然それぞれにパートナー関係を結んでいる。

特に劇中で関係性を示唆されていなくとも、まるで体育の授業で「ペアを作って下さ~い」と言われて焦りを感じたあの時のように、誰もかれもが慌てたようにニコイチになっている。

そ、そこに(キャラクター自身の、あるいはキャラクターへの)愛はあるんか……?

この唐突にすら感じられるカップル成立を下支えするのは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに他ならないだろう。

「幸せとは星が降る夜とまぶしい朝が繰り返すことじゃなく、恋をして結婚することだ」と考える社会がまだまだ続いているということの証左だ。

何より、恋愛と結婚と幸福をセット売りすることは、多くの事実と矛盾する。

  • 誰しもが恋愛を経験するわけではない。
  • 恋愛を経験した誰しもが結婚に至るわけではない。
  • 恋愛を経験しても、誰しもが結婚できるわけではない。
  • 結婚に至った誰しもが恋愛を経験したわけではない。

この矛盾に異議あり!すると同時に、アロマンティックの一人として、アロマンティックがバチクソ幸せに生きている、生きていけるということを否定させないために、このイデオロギーを否定する。

 

恋愛を経験しなくても、私たちは勝手に幸福になれるし、勝手に不幸になれるのだ。

 

*1:Back Number「瞬き」

youtu.be

*2:Adel「Someone Like You」

youtu.be

*3:「あなたに出会わなければこんな気持ちにさせられたとは思えない」と歌詞が続くので、構造的には「恋は当たり前じゃない」という文意になるとは思う。

*4:世界最大のアセクシャルコミュニティ「AVEN」はもちろん、すでに様々な媒体でAスペクトラムについて発信されている方々のすべて。

*5:詳しくはこのサイトをぜひ参照されたい。

アロマンティックってなに?恋愛的惹かれってどういうこと? | Palettalk パレットーク

アセクシュアルってなに?「性的惹かれ」ってどういうこと? | Palettalk パレットーク

*6:アンジェラ・チェン著、羽生有希訳『ACE アセクシャルから見たセックスと社会のこと」67ページ参照。Aspecだけでなく、万人にマジでおすすめの一冊です。

*7:GO!GO!7188「ララバイカウントダウン」

youtu.be

*8:この感覚はアロマンティックというよりリスロマンティック(他者に恋愛的に惹かれるものの応えてほしいという欲求はないという指向)に近いかもしれない。私自身明確にできてはいないので本文ではアロマンティックとして扱う。

*9:フィクトセクシャル、フィクトロマンティック

2025年に手元に来て良かったもの(生活、あるいはそれ以外)

2025年の半分は例年に比べると慎ましやかな購買活動だった。

まあ、引越しを3回行ったせいで貯金が全額吹っ飛んだというのは大きい。

そんな、あっちへこっちへの暮らしで安定しない私の手元にやってきたもの。

その中でも良かったなあと思うものをいくつか。

 

良かったコスメ

ラ・メール

ザ・リップ ボリューマイザー シアーグロウ

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これは友人から誕生日プレゼントで頂いた。

リッププランパーはCipiCipiのガラスプランパーを使ったことがあるだけで、そして残念ながらプランプ効果や保湿感を感じることができず「ほ〜〜〜」のアイテムだった。

それを覆したラ・メールのこのボリューマイザー。

唇の縦皺、というものをあまり意識したことがなかった私を「縦皺が無いってこんな気持ちいいの?!」と驚愕させた補修力。

無くなってから気付くものって、大切なものだけじゃなかった。

縦皺、あったんだ。

このボリューマイザーをメイクの初めに塗っておくと、仕上げのリップまでの間に皮の硬い塊、皺をなきものにしてくれる。

硬くなった唇の皮の針山でリップスティックが削り取られることもなくなり、心なしかLAKAのティント残りも良くなった気がする。

あと、甘いナッツのような不思議な香りが面白い。

 

良かったバッグ

LASTFRAME

KYOTO METALLIC MARKET BAG MINI (STRAP) / DARK SILVER × BLACK

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ラ・メールのリップを贈ってくれた友人の

「レザーはもう日本の夏を耐えられない」

という言葉に深く頷いて入手したラストフレームののびのびバッグ。

のびのびとは言えど、縦ににょーんとは伸びないし、膨らみ方も不細工では無い。

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二つ折り財布、エコバッグ、ミニボトル、常備薬ポーチ×2、ハンカチという外出への恐怖がデカい私の最低限の荷物もなんなく入る。

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全身黒ずくめになりがちな私のスタイリングに馴染みながらバッチリ輝くシルバーラメもかなりお気に入りだ。

カラー展開も豊富なので、ビビッドなバイカラーアイテムも追加したい気もする。

このバッグも友人が持っていたのを良いなあ、と思って目星をつけていたので、お買い物上手が身近にいるととてもありがたい。

KYOTO METALLIC MARKET BAG MINI (STRAP) / DARK SILVER × BLACK

 

良かったぬいぐるみ

THE MONSTERS LABUBU

Big into Energy

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言わずと知れたラブブ。

この子はHAPPINESSと申します。

今年の9月ごろ、前二項目で登場した友人と遊んでいる時に「ラブブすごいよなあ」と言われ、思いっきり知ったかぶりをした。

たぶん、聞き取れてもいなかったと思う。

「あー、ンブブね。人気よな」

みたいな取り繕いをした気がする。

帰宅後、何気なくンブブ?マブブ?なんだっけ、と調べたら、あらかわいい。

ふあふあでパステルカラーで、お耳が長くて悪い顔をしている。

かあわいい。

女の子なのね、性別とかある世界観なのね。

と思いながら購入方法を調べたところまず入店抽選があり、購入順も運任せと来た。

何度か挑戦したのち11月の入店抽選に当選し、最終入店時間の回でギリギリ一つ購入できた。

私の二人あとのお客さんで売り切れていたので、本当に手元に来てくれてありがとうね、という気持ちだ。

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このちいちゃなおててを見てください。

かわいいですね。

甥っ子さんの赤ちゃん時代を思い出す。

愛おしいという以外に言葉が見つからない。

甥っ子さんにベビー服を買っていたように、今はラブブに服を着せてやりたい。

自分で作るか、外注するか悩んでいる。

(甥っ子さんは今やモンベルのでかいリュックも背負えるぐらいになった。服を送るのは卒業かなあ)

https://www.popmart.com/ja-JP/products/5737/the-monsters-big-into-energy-%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC%25E3%2582%25BA-%25E3%2581%25AC%25E3%2581%2584%25E3%2581%2590%25E3%2582%258B%25E3%2581%25BF%25E3%2583%259A%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2580%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2588

 

良かったジュエリー

HIROTAKA 

DOROSERA ダイヤモンドリング

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ずっと欲しかったHIROTAKAのドロセラシリーズのリング。

値上げ直前に「やっぱどう考えても欲しい!!!!」という気持ちで駆け込んで、今はお出かけの時の頼れる相棒になっている。

指に巻き付く食虫植物のような有機的なフォルム。

寄生獣のミギーの瞳のように輝くダイヤモンド。

このシンプルながらも絶妙に妖しいデザインが本当に飽きない。

単品でもじゅうぶんに存在感があるが、こちらもヘビーユースのポメラートのブラウンダイヤのサッビアリングと重ねてもゴージャス。

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よく拝見しているジュエリーアカウントの方を参考させていただいたが、この組み合わせは本当にゴージャスで着けるたびに新鮮に喜びが湧き上がる。

着けるたびに喜びが湧き上がるジュエリーというのは貴重なので、購入依頼ずっと嬉しい。

【受注予約】DROSERA ダイヤモンド リング

 

良かった家電

象印 

電気ケトル CK-SA06 GZ

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短い一人暮らし時代から出戻り実家現在まで大活躍の電気ケトル。

言わずもがなだが、本当に湯沸かしへのハードルが無くなった。

ミルクパンに水を張ってコンロに置いて点火して沸騰するまで見守る、だけのことが意外とダルい。

ケトルに水を入れて台に置いて待つ、というケトルの手順の少なさと安全性が山となっていた紅茶のストックを激減させてくれた。

スープも飲むようになった。

ジュースをやめて茶を飲むようになった。

よく知らないが、温活になっているのでは無いだろうか。

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あと、このダスティーグリーンがかわいい。

限りなくデフォルメされたゾウのイラストもゾウへの敬愛が感じられて良い。

クジラとゾウを敬い愛しているので、シンパシーを感じる。

 

良かった本

  • 『鋼鉄紅女』シーラン・ジェイ・ジャオ
  • 『目の眩んだ者たちの国家』キム・エランほか
  • 『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェン
  • 『すべての、白いものたちの』ハン・ガン

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一つに絞れなかったので、フィクション、ノンフィクションから四つほど……。

 

『鋼鉄紅女』シーラン・ジェイ・ジャオ

襲い来る怪物たちに立ち向かう、巨大変形ロボに乗り込む男女パイロットの大活劇。

という設定をベースに、ロボに乗るたびに使い捨てにされ、国の供物になっていく女たちを救うために血に塗れながら覇道を拓いていく主人公・則天(ゾーティエン)が世界の仕組みと取っ組み合いし続けるという、どえらく敵の多い戦記になっている。

家族の安寧のために娘を国に差し出す両親、意に沿わぬ兵士を従わせるためにアルコール漬けにする組織。

我が子に性接待をさせて財を積み上げる大企業、国民の命をどう使えば自分たちが安全で豊かに生きられるかばかりに苦心する政府。

これら全てと戦い続け、数多の血を流した末に瓦礫の頂上に立った主人公が見た世界の真実とは。

続編の『天空龍機』が今夏発売され、一気に読み終えたが、すんげえよ。

本物の怒りとスペクタクルが、ここにある。


『目の眩んだ者たちの国家』キム・エランほか

セウォル号事件であらわになった、韓国という国家の傾き。

十二名それぞれの視点から語られる事件の輪郭が、船に乗っていた人々を決定的に"沈めた"のは社会と国家であるということを浮かび上がらせる。

セウォル号事件を取り巻く絶望と悲痛は、韓国の人々のものである。

それでも、傾く国家は決して他人事では無い。

以下は、読みながらブルースカイに投稿していた雑感だ。

「船の傾きが誰か、特別な人間にとって利益になるなら船員は船の傾きを維持することに専念する。あるいはその愚かな忠誠心か欲望によってもっと船を傾けるだろう。そのせいで乗客が幾人も甲板から滑り落ちて海の渦に引き摺り込まれていったとしても」
このたとえが喉につっかえて嘔吐感すらある>『目の眩んだ者たちの国家』

 

傾きに慣れすぎた乗客は「落ちて行ったあいつが弱いのだ」というかもしれないし、「落ちないよう踏ん張る努力を自分はしている」というかもしれない。
実際にそれは「節約術」「投資」「貯金」「セルフケア」という言葉に形を変えてよく見聞きする。私たちが既に棄民であるということに薄っすら気付きながら。

 

セウォル号にまつわる感情や経験を私が簒奪するわけにはいかないけど、不正義によって子供たちが死んでいくのを、ただ茫然と見ているしかできない恥ずかしさ、申し訳なさ、そして子どもたちを殺した不正義を支えてきた(今なお支えている)大勢のうちの紛れもない一人であるという罪悪感は共有されざるを得ず、読み進めるのがとてもつらい>目の眩んだ者たちの国家

それでも、帯にも書かれているファン・ジョンウンの言葉が「絶望」という容易な諦めを許さない。

どれほど簡単なことなのか。

希望がない、と言うことは。

この世界に対する信頼をなくしてしまったと言うことは。

「絶望」してその場を離れ、目を背けることができるのは「絶望」の外側にいる人間だけだ。

諦めることができるのは、諦めても生きていける人々だけだ。

様々な角度から語られる傾く国家は紛れもなく、今私たちが立っているまさにここのことでもある。

最後に2026年に向けて、私自身を監視する言葉として本文から引用する。

"平穏さの裏側では弱者たちの命をすりつぶす惨劇が繰り返される虚構の安全共同体、そうやって一部の者たちを集団的に排除する一方で、生き残った者たちは安全な国という幻想を信じ込まされる"

"日常の平和は、敵の武力侵攻によってではなく、生命の安全保障の体制の不備と国家の空白によって内部から脅かされる。"

『目の眩んだ者たちの国家』収録、チョン・ギュチャン著「永遠の災難状態」

 

『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェン

本屋をぶらつくと思いがけない本を手に取ることがある。

今年唯一の「たまたま立ち寄った本屋で見つけてなんとなく買った本」がこの『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』だ。

アロマンティック・アセクシュアル(aroace)である、と自覚してからさまざまな考え方や道筋にアクセスしやすくなったが、それでも未だに多くの人と同じ生き方が出来ないことに、呼吸が浅くなるような感覚に陥ることがある。

恋愛や性愛を経験できたら楽になれたろうにな、と思うとき、この本を思い出すことで「恋愛や性愛を経験できないことで苦しむ理由」が私の外側にある、ということも同時に思い出す。

恋愛と性愛が制度に組み込まれ過ぎている、ということ。

社会は「二人以上で生きること」を前提に作られている、ということ。

そして何より、恋愛と性愛は社会のためにあるわけではない、という当然の事実が明記されていることは、誰しもの苦痛を取り除く鍵になる。

恋人になる、ということはセックスの確約ではなく、セックスは誰かの価値を高める機能を持ちはしない。

社会やコミュニティの視線が性行為に本来ありもしない特権を与え、恋愛の当然一緒にあるべきものだと私たちに錯覚させている。

んなこたない、ということが、様々なセクシュアリティの人々へのインタビューや広く集められた文献やコンテンツの解読によって分かりやすく展開されている。

わざわざ読むのはちょっとな、という人も、以下の点だけでもちらっと見ていって欲しい。

『アセクシャルから見たセックスと社会のこと』ゆっくり読み進めて最終章ですが、アセクシャルに限らずアロマンスにもポリアモリーにも、もっと言えばアロー(性的惹かれを経験する人、性愛者)にも読まれて欲しい。捕捉範囲がめちゃくちゃ広い。

・恋愛×性愛を至上とする価値観は社会によって作り上げられたものなので個人レベルで解体していける
・セックスという"経験"はそれだけで人の価値を高めたりするものではない
・性行為への同意は「積極的にイエス」「望んではいないが相手が喜ぶならイエス」「本当はノーだが仕方なくイエス」ぐらいまで細分化できる=パートナー間においてもセックスを求める権利と応じる義務が発生するわけではない

また、トランスジェンダーは必ず恋愛と性愛を求めるだろう(そのために性の変更を望むのだろう)という馬鹿げた言説や、セックスを望むと"淫乱"と非難され、セックスを拒むと"保守的"と揶揄される人種やグループへの過度なセックスの規範化に対しても「これ変です!!!!!!」と明言されている

セックスの必要に迫られて悩むアローロマンス(恋愛的な惹かれを感じる人)にも、性行為の経験の無さをコンプレックスに感じているアロセクシュアル(性的惹かれを感じる人)にもぜひ読まれたいと思う一冊だ。

 

『すべての、白いものたちの』ハン・ガン

ここ数年はアジア文学に強く惹かれていて、その中でも韓国文学には多く触れている。

特に今年はキム・チョヨプのSFに漂う寂しさに慰められた一年だった。

それでも『すべての、白いものたちの』を選んだのは、今更どうしようもない、だというのに今もまだ飲み込めない「死」というものとの向き合い方を新たに一つ教えてくれた教本となったからだ。

この本の中で語られる、もう居ない者への回顧と祈りは、実践しようとすると正直かなり難しい。

彼/彼女を思い出して、目の前に立ってもらう。

私が見た空を見て、歩いた道を歩いてもらう。

これを安易に試すと、その不可能さに挫けてしまう。

その恢復も、ハン・ガンの静かな文字を辿ることでやっと可能になる。

本屋で手に取ってペラっとめくったページの文章に「あ〜〜〜これは読みたい」と思った、その時の感覚のまま読み終えた。産着、雪、灰、骨、魚の腹。白いものたちは時に目を貫くように眩しく、時に驚くほど静かに佇む。動的な白と静的な白が生と死を繋ぐ全編が、もうここには無いもの(これからもあるはずだったもの)を追憶する礼拝堂のように機能する。

最初読み終えた時、この本のことを「礼拝堂」と例えたが、この本を読むことがそのまま、今はもう居ない人を思うことに繋がっていく。

そういった読み方すらも許す、誰しもに開かれた恢復の一遍だ。

 

良かった映画

羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来

『すべての、白いものたちの』の読了後ちょうど始まった『羅小黒戦記2』でも、既に失われたものへの葬送と恢復の道程が描かれていた。

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物語があまりにもスバン!と胸に突き刺さったので別途書き起こしてもいる。

ルーイエの人生から無惨にちぎり取られ、どこにも行けないまま取り残された幼い少女。

その面影は、ムゲンに救われたシャオヘイと重なり、無邪気に笑いながらワンピースの裾をひるがえす。

それは、ルーイエに訪れたかもしれない優しい「もしも」の世界であり、シャオヘイにもたらされた温かな日常である。

ルーイエ自身にすら救うことの出来なかった少女が、救われた少年を通して「もしも」の世界を歩くことができた。

師の手を握り、撫でられ、甘えて笑う、あり得たかもしれない、それでも存在しない世界の幻。

この優しい幻影は、長い時を経てようやく訪れた少女時代への弔いなのだと思う。

弔うことで、人は別れを認識できる。

歪な形で大人にならざるを得なかったルーイエに僅かに残っていた少女の面影は、痛みと共にしか蘇らなかった過去は、シャオヘイを通して昇華され、街角へ消えていく。

 

『羅小黒戦記2』は戦争映画だと評したが、同時に類稀なる「恢復」の物語でもある。

少女姿のルーイエに、ハン・ガンの著書『すべての、白いものたちの』を思い出す。

著者であるハン・ガンは、自分が生まれてくる前に死んだ姉を「もしも」の世界に立たせる。

生後2時間で息をしなくなった姉がもしも生きていれば、自分は生まれてこなかった。

自分のいない「もしも」の世界で生きる姉の足取りを描くことは、祈りのようだと語られている。

失われたものを今あるものに重ね、生かすことは「もしも」の追憶であり、失われたものへの別れの時間を与える。

さようなら、をちゃんと伝えられることは、何よりの祈りで、恢復である。

 

己の少女時代に別れを告げられたルーイエにも、ようやく恢復がもたらされたのだと思う。

羅小黒戦記がアニメーションとして卓越していることは言を俟たないが、戦争遺児が自らを救う恢復の物語としても、比類のないものだと心の底から思う。

こんな物語に出会えたことに感謝しながら、こんな物語が国境を越えてやってきてくれたことの当然じゃなさにも目を向けたい。

 

傾く国家を立て直す努力もせずしがみついたままその内にひっくり返ってしまえば、手元に来て良かったものなんか一つも無くなるだろうから。

ノープランごつゆる旅と金沢の懐の深さ。(おまけあり)

こんにちは、こんばんは。

JUST DO ITの化身ことはとさんからお誘いいただきまして2025年のぽっぽアドベントに参加いたします。

10日(水)担当のかこQと申します。

(アドベントカレンダーのページでは別名義のオザキになっています。)

今年のテーマは「ゆきてかえりし物語」。

なので、まずは今年のはじめにワーイ!(喜)と行ってエーン!(寂)と帰ってきた旅行の話をします。

よろしくお願いします。

 

ノープランごつゆる旅と金沢の懐の深さ

2024年12月末。

高校時代からの友人たちと忘年会をしていた。

飲んだり食べたりボードゲームをしたり、友人たちのsuper cuteなbabysをみんなで代わる代わる抱っこさせてもらったりと盛り上がるなか、一人の友人がこんな近況を語った。

「そういえばこの間、家族で金沢に旅行に行ったんだけど、のどぐろがめちゃくちゃ美味しかった!」

それを聞いた我々は

「家族旅行良いじゃん〜〜〜!」

「赤ちゃんのうちからいろんなとこに行くのって良いね〜〜〜!」

「のどぐろか〜〜〜!食いてっ!」

「金沢どんな感じ〜〜〜?」

と口々に盛り上がった。

 

そしてこの、

「のどぐろか〜〜〜!食いてっ!」

を担当したのがたぶん私だったのだろう。

なぜなら、その旅行話を一緒に聞いていた友人から翌日

「昨日、金沢に行きたいって言ってたよね?じゃあ一緒に行こう!のどぐろ食べに!」

とメッセージが来たからだ。

 

思うに、人生をより楽しく過ごすために大事なのは

「やりたいことは口に出す」

こと。

あるいはそれ以上に

「ゴリゴリにフットワークの軽い友人の存在」

だと思う。

このゴリゴリにフットワークの軽い友人と、年明け2025年の3月に金沢旅行に行くこととなった。

目標は

「のどぐろを食べる!可能な限り多くの」

のみ!

行くぜ!

移動手段と宿だけ決めた、2泊3日のごつゆる(ごっつゆるい)金沢食い倒れ旅に!

注:ごつゆる旅なので、美味しかったお店の紹介などはほとんどありません。

見つけたお店に飛び込むスタイルのため、ろくすっぽ記録がないのがごつゆる旅。

 

金沢に来るなら、春か夏か秋か冬がいいと思います。

これは、北陸新幹線が金沢まで開通した2015年に金沢駅に掲げられていた、旅行客を迎える垂れ幕の文言だそうだ。

季節もイベントも関係なくいらっしゃい。

という懐の深さを感じられて、良い。

何より、私たちが訪れた2025年3月時点ではもう垂れ幕は無かったが、この言葉は体感的に

「マジで、そう」

だった。

 

ノープラン二人、バスさえあれば何とでも

3月下旬。

大阪と東京からおのおの新幹線でワーッと2時間ほど移動して金沢に到着。

金沢駅での再会の喜びも冷めぬまま、踊るように向かったのはチェーンの回転寿司店「すし食いねぇ!」。

金沢駅周辺にはチェーンの回転寿司店が点在しており、口コミを見てもどこも評価が高い。

気負わず悩まず適当に空いてる店に踊り込もう!

そして食おう!

寿司を!

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のどぐろの握り。意外とシャキッとした歯応え。でも油と旨みが濃〜い。

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まぐろと……何……?

スズキかなあ。

まあでもとにかくうまい。

二人で行くと一貫ずつ分けっこ出来て最高。

 

初っ端からあっさりと旅の起点である「のどぐろか〜〜〜!食いてっ!」が叶ってしまった。

思いもよらず幸先の良いスタートを切ることができた。

ヤッピー!(ヤッター!&ハッピー!)

ノープランごつゆる旅の良いところは、何となくのチョイスが大正解だとめちゃくちゃ嬉しい、というところ。

そのうえ、ノープランがゆえに明確な失敗もない。

たとえば、「すし食いねぇ!」を後にし向かった金沢城公園。

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花、咲かず。

葉も、無く。

雲、広がり。

でも、これも、良い!!!!

旅行に満開の花は必須?

光り輝くイルミネーションがなければダメ?

そんなことは、ない。

雨雲が垂れ込めていようが木々が裸ん坊だろうが、楽しむ気持ちさえあれば記念写真に映るのはビッグスマイル!

「見るべき」とか「やるべき」の誘導や、「せっかく来たんだから」という強迫観念的な焦りがないノープランごつゆる旅は、「どこにいても何をしていても楽しい」。

何より、金沢は兼六園や21世紀美術館、ひがし茶屋街といった定番の観光地が周遊バスで繋げられているので本当に移動が楽ちんだ。

楽しい気分が移動の煩雑さでぶちぶち途切れる、ということがない。

バスにピョンと乗りゃあどっか良いとこに着く、という懐の広さが金沢にはある。

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ひがし茶屋街は灯籠の灯る日暮れが綺麗だ。

3月はまだまだ寒みぃ〜が「オ〜〜〜さむ、awesome」などと言いながらカフェの席が開くのを待つのも楽しい。

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選べるのにドリンクもスイーツも抹茶にした私と、バランスよく飲み物はほうじ茶にした友人。

友人は「両方抹茶にする、というのも大人の選択かもしれない」と言ってくれた。

優しい。

 

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ひがし茶屋街でしろいねこを追いかけても良い。

ねこがスゥ……と路地裏に消えるまでただ見つめた。

ノープランだから。

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旅館での夕食後に部屋で酒を追加で飲んでも良い。

明日の朝ちょっとしんどくても構わない。

ノープランだから。

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「More Joy」(より一層の喜びを)と書かれたスウェットを着ているのにあら汁を注文しない、という選択をしても良い。

たぶんまた食べる機会があるだろうし。

ノープランだから。

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やることが思いつかなかったらベタな観光地に行ってソフトクリームを食べたら良いし、

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思いつきでハーバリウム制作体験をやっても良い。

帰る時間は未定で、乗車時間を何回でも変えられる新幹線のチケットを取っている。

ノープランだから。

 

そうしてお互いに食と遊びに満足した頃、「まあぼちぼち帰るか、寂しいけど」という名残惜しさと共におのおのまた西と東へ帰って行った。

 

ごつゆるノープラン食い倒れ旅は、かなり金沢の懐の広さに支えられたと思う。

海鮮は基本的にどこで食ってもうまい。

特に口コミも見ずに適当に入った居酒屋の釜飯だってうまい。

酒は当然うまい。

観光地もバスでぐるぐる回ることができるので移動の懸念もない。

金沢から少し離れるが、特急に乗って30分ぐらいで温泉郷(加賀温泉)に行けるので急な露天風呂三昧だって簡単だ。

 

そして何より、ノープランにすることで時間的な拘束や下調べの必要がほとんどなかったことが、個人的に新鮮だった。

旅行中なのに、目の前のことだけ気にしていれば良い。

移動時間も、施設の営業時間も、次の行程も気にせず、思いつきで友人とワハワハ笑いながら流れていくような旅。

それがノープランごつゆる旅。

とはいえ、こんなに楽しい時間を過ごせたのは、おおらかで愉快でゴリゴリにフットワークの軽い友人の存在が大きい。

この旅を通じて、友人の素敵なところ(たくさんあるから書ききれない)にも改めて気付かされたと思う。

金沢と友人は、同じくらい懐が深い。

 

 

 

 

明日11日の担当ははきやまさん!

長崎旅のことを描きます、とのことです!

きやまさんのイラストが好きないちファンとしてとても楽しみです!

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

行きて帰りし旅、というには普通の旅行記になったのでおまけの話。

 

この4月から新しい職場で働くことになった。

勤務地は実家から通うと1時間半から2時間ほどかかるため、3月の半ばには職場から20分ほどのA市に居を構えた。

ところが。

2月末には人事に「ほぼほぼA市での勤務だと思ってもらって大丈夫です」と言われていたのが仰天、3月末に送られてきたのはB市への配属通知。

新居からB市までは乗り換え4回で約2時間ほど。

暴れたろかと思った。

その辺の道端に寝転がってダ・ヴィンチの人体図みたいにバタつきたかった。

f:id:honmaka_sayoka:20251209000319j:image/キィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッ\

でも、グッと堪えて、配属通知を待たなかった己をしばきあげて、1ヶ月ほどA市からB市まで通勤した。

9時始業のために7時過ぎには家を出て、21時退勤でも家に着くのは23時前。

あったま変なる〜〜〜!!!!

となり、5月半ばにB市に転居。

一生懸命探したA市の素敵なお家♡は1ヶ月と少しだけのお付き合いになった。

そして、B市に転居してから5ヶ月ほど経った9月。

辞めました。

もう色々とあったま変なる〜〜〜!!!!

となったので。

約半年で実家に戻ってきました。

出ていく時は「もうあと何回ぐらい両親に会えるのだろう……」としんみりしていたのに、今では毎日顔を突き合わせている。

「親の顔より見た〜」というネットスラングがあるが、親の顔より見たものは正直ない気がする。

ゆきてかえりし人生、親の顔の視聴率が伸び止まない。

 

 

おまけのおまけ

そして言いたい。

本当に伝えたい。

みんな!!!!!!

短期間で引越し、というか住民票の移動を繰り返すと投票権(選挙人名簿への記載)が無くなるよ!!!!!!!

3ヶ月以上同一の市町村に住民票がない場合、投票権が無くなる(選挙人名簿に乗らなくなる)んだって!!!!!!

私は今年7月の参院選に投票できなかったよ!!!!!!!!!

どういう状況だったかというと、

 

実家←住民票があったのは3月まで(7月時点で3か月以上前)

A市(5月時点在住)←3ヶ月も住んでいない

B市(7月時点在住)←3ヶ月も住んでいない

 

「3ヶ月以上同一の市町村に住民票がある」という条件を7月時点で満たせていなかったので、いずれの市町村でも投票権がない(選挙人名簿に載っていない)ということに。

選挙の準備のために毎日どえらい残業をしていた私は選挙に行けませんでした。

暴れたろかと思った。

キィーーーーーーーッッッッッ

 

 

とにかく、不正な投票を防ぐためのルールらしいが、知らなかった。

もちろん今の今まで知らなかった私が悪い。

が、私のような、己の凡ミスで参政権の行使ができなくなった知的な木の棒みたいな人間が生まれないためにももう一度。

国政選挙周辺の引越し(住民票の移動)には気を付けよう!!!!!!

ね!!!!!!!!!!

『ひゃくえむ。』とセッションできない空虚さを抱えて歩く。

 

映画『ひゃくえむ。』を観た。

けっこう前に。

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ひゃくえむ。、なんて乾いた語り口。スポーツへの熱狂を否定も肯定もせずに、キャラクターたちそれぞれの哲学だけで100mを走り切る一瞬の最高温度を計り切る。破天荒でも紋切り型でもない、例えるなら散文詩のような新しい撮り方の映画だった。良いもん観た〜〜〜〜!!!!!!!!

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ひゃくえむ。を最後まで気持ちよく見れた理由はたくさん挙げられるけど、「スポーツ漫画だけど根性ではなくずっと哲学の話をしている」「キャラクターたちを追い詰めるのはマスキュリニティではなくマッドネス」は大きいかも。個人という極小の単位で葛藤してる。周りを巻き込んで破滅(多くはパートナーや配偶者、家族)していく主人公を観たい気分の時ってあんまりないから助かったな。

鑑賞直後の感想には、今でも「せやね」と思う。

映画『ひゃくえむ。』の乾いた質感と灼熱の狂気のコンビネーションはあまり出会えないタイプの組み合わせで、あまり出会えないものに突然出くわすというのはいつだって嬉しい。

レビューも見ずに入った創作料理のお店が思いもよらず絶品ばかりでラッキー!ハッピー!みたいな感覚。

だというのに、その嬉しさを感じながらずっと

「助けてくれーーーーーー!!!!!!!」

と思っている。

「寂しーーーーーーーー!!!!!!!」

とも。

この飢餓感の由来をひたすら考えて1ヶ月。

 

たぶんこれやなあ……というイメージが思い浮かんだ。

 

『ひゃくえむ。』とセッションが出来なかった。

 

 

『ひゃくえむ。』、良い映画。

『ひゃくえむ。』の原作漫画は未読だが、作者である魚豊氏の『チ。ー地球の運動についてー』は一通り読んだり観たりとエンジョイさせてもらっている。

世に出た順番としては『ひゃくえむ。』の方が先だが、物語の湿度管理と哲学的な思考をベースに動くキャラクター造形は『チ。』から一貫している。

映画『ひゃくえむ。』の

「その距離は時間に権力を与える」

という開幕のモノローグには、まさしく欲しいものが来た、という快感すらあった。

脳内の鈴木雅之も「そう、これこれ」と満足気だ。

セリフ一つで物語の世界観と美学を叩き込んでくる、魚豊作品の言葉の圧力はすごい。

今まで一度も思ったこともない、考えたこともない論理が真理に聞こえる。

そういう怖さすらある。

劇中でも印象的なセリフが度々登場するが、そのどれもが論理で基礎固めされていて堅牢だ。

母校での財津のスピーチ。

現実逃避を決行する海堂。

一瞬の栄光を確信する小宮。

物語の始まりとなるトガシの一言。

これらのセリフは全て各々の人生哲学に補強されている。が、同時にとても情熱的だ。

「現実ごときが俺の意思には追いつけない」

これは海堂の言葉だが、論理をブチ抜く情念がある。

「人生なんてくれてやれ」

淡々と謳われる財津の演説は、その語り口とは裏腹にその身を焼き尽くすような業火に包まれている。

大概、論理と感情は対比して並べられる。

ところが『ひゃくえむ。』の中では、乾いた論理とじっとりとした手触りのある感情がガッツリ肩を組んで、静かな語り口とは裏腹なパワフルさで迫ってくる。

そんなイレギュラーな分子結合が、魚豊作品の言葉の圧力の源なのだと思う。

映画『ひゃくえむ。』は、その圧力の調整が上手かった。

主役二人、トガシと小宮をそれぞれ俳優キャスティングにすることで、二次元と三次元の境界線を滲ませる。

聞き馴染んだ声優の声ではないからか、「トガシ」と「小宮」が他の誰でも無い個人として存在していた。

声優の演技が作品のクオリティを担保している一方で、「あ、あの声優さんだ」とキャラクターの外側を認識してしまうのは仕方がない。

その無意識の連想ゲームを、声優ではない役者の起用で上手く回避している。

さらにロコスコープという撮影技法と組み合わさることで、現実世界のぬるりとした感触がアニメーションのパキッとした輪郭線の中に収まっている。

生身の人間の継ぎ目のない滑らかな動作と、魚豊氏の鋭利なキャラクターデザインが面白い視覚効果を生んでいる。

こういった、生々しい湿度のある情感や質感と、ピリッとひりつく淡麗辛口の論理やデザインのバランスが脳にも視覚にも特殊な快感をもたらしている。

サウナの交互浴的な心地よさだ。

私がこの作品にいいねを送っているのも、脳に捩じ込まれる論理とハートにぶち込まれる情熱の緩急にラブです……となったからだ。

ラブです……。

ラブなのに……。

ラブなのに、なのだ……。

 

セッション失敗

【悲報】構造の話しかしていない!

ここまで来て、映画の構造の話しかしていない!

「この組み立て方はいいね」

としか言っていないのだ!!!

心の話、全然していない!!!!!!

ラブ……とか指ハートを送りながら、実のところ私の"心"が震えたかと言えば、正直問題震えていない!!!!!!

いいなあ、と思ったエモーションも、劇中で明確に描かれた感情を無加工で受け取ったに過ぎない!!!!

心が!!!!!!

熱くなってない!!!!!!!!

どうして!!!!!!!!!!

 

 

あのーーーーーー、、、、、

そのーーーーーーーー、、、、、

「悔しい」

とか

「勝ちたい」

とか

「これがなきゃ」

とか、

そういった"執念"が、、、、、、

ないんよね、、、、、、、、、


物語が心に響くときって、物語が提示した事象に対して自分が感情や記憶といった手札を素早く、種類豊富に出せたときだと思う。

たとえば簡単な例で言うと、親しい人を亡くしたキャラクターの涙を見たとき、それに対して自分の経験や感情が反射的にそこに上乗せされる。

実際に家族や友人を亡くしていれば、そこに実体験としての悲しみが重なるだろうし、経験がなくともその悲しさはおそらく誰しもに共感されうる。

逆に、人の死がな〜〜〜んもつらくない、悲しくない、生物の宿命っしょ、な人にとっては死を悼む一幕は意味のない、あるいは困惑すらもたらすシーンになるだろう。

言ってしまえば、物語を楽しむためには相応の感情と経験を場面ごとに手札から取り出して適宜対応させる必要があるのだ。

劇場映画は特に、問答無用で進んで行ってしまい、一時停止も巻き戻しも効かないのでリズムが大事だ。

その瞬間に対応する感情を自分の手札から取り出す、また次のシーンでは別の感情を取り出す。

向こうが提示する、こちらは乗っかる、向こうが提示する、こちらは乗っかる。

そういうやり取りを無意識下で繰り返すことで、物語が自分の感情や経験と共鳴して心が震えるのだ。

物語と上手くセッション出来たら、最高。

 

私が『ひゃくえむ。』で心を震わせることが出来なかったのは、つまりこのセッションが出来なかったということだ。

経験値で映画の構造に感嘆したものの、物語やキャラクターが醸す「感情」に対して出せる合いの手がなかった。

無かった手札は、「執念」だ。

「勝ちたい」「悔しい」「これがなきゃいけない」

そういう感情がほ〜〜〜〜〜んとに無い。

すっからかんよ。

なぜなら、八方美人のコバンザメ、平均所得のスネ夫として生きてきたからだ。

オタクのコミュニティに属しつつ、ギャルの無茶振りにも応えて上手い汁を吸う。

最初からいじられキャラとして振る舞うことで、いじめられない安定した立ち位置を得る。

クラスメイトに嫌われず、教師に好かれ、同僚に信頼され、上司に守られるために「悔しい」「負けたくない」という感情は邪魔だったのでポイポイと捨ててきた。

捨ててきた結果、執念や情熱が分からないすっからかん人間になってしまった。

執念が分からないので、トガシの涙も理屈で解読できても共感がない。

情熱が分からないので、「ガチ」の熱さを感じられない。

こんなの、葉加瀬太郎もしょんぼりしてバイオリンをケースにしまっちゃうだろう。

この「執念のなさ」がずっと感じていた

「助けてくれーーーーーーーー!!!!!!」

の正体だ。

自分の「無い感情」と向き合わされて苦しいのだ。

『ひゃくえむ。』の情熱が心に力強く訴えて来れば来るほど、虚しくあいた空洞に反響するばかり。

むしろ空虚さが浮き彫りになってしまった。

 

感情を不要!不要!と処分してきたせいで、物語とセッション出来なかった。

悲しい気持ちはある。

ちゃんと悔しがりたいし、熱くなりたいし、執着したい。

でも、無いは無いなりに、この「無さ」について1ヶ月もぐるぐると頭を悩ませられて楽しかった。

執念のなさのおかげで今のまあまあ好きな自分もいることだし。

空虚さだって、「空虚さがあるなあ」と思えば扱い方も分かってくるだろう。

 

 

おまけ

私が走る姿を見た母に

「どうしたん?!身体の使い方が分からないみたいな動き!壊れたマリオネット?!?」

と評され、

50mを11秒〜12秒台で走る私を見た友人に

「ウサイン・ボルトにおんぶされて走ってもらった方がむしろ早い」

「災害とか危険なことが起きたとき、走って逃げるのは諦めて助けを呼びなさい」

と心配され、

決められた周回数を走りきれなかった持久走の授業中、教師に

「もういいよ!チャイムが鳴ってるからもう十分だよ!」

となだめられたほどの走り下手なので、どうか、どうか今後の人生において走ることが必要な瞬間が訪れませんように。

永遠に歩いていけますように。

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『羅小黒戦記2』はなんの話?恢復の話!〜『すべての、白いものたちの』を読みながら〜

羅小黒戦記2公開!最高!!!!

だ〜いすきな『羅小黒戦記』の続編がついに公開!

5年間、ひたすらフーシーの願いと行動とその結果についてめそめそと考えていたので、その後の物語を楽しみにしつつもかなり緊張していた。

なんか、フーシーがいない物語の先に行ってもいいのかなと。

続編が素晴らしいものであったとして、その素晴らしさがフーシーの記憶を塗り潰してしまうなら寂しすぎる。

「あなたの居ない世界で私は笑っていいのでしょうか症候群」とでも言うべきか。

もしこの後ろめたさにちゃんと名前があるならぜひ教えて欲しい。

でも、シャオヘイのこともムゲンのことも心から愛しているので、後ろめたさを言い訳に見ないわけにもいかず、ワーーーーーーーーー!!!!と観に行った。

そしてワーーーーーーーーー!!!!!と出てきた。

 

よ、良かった……。

事前情報を何も入れずに飛び込んだので、キービジュアルにいるかっこいい新キャラが「スマートな青年」じゃなかったことに驚いた。

ルーイエ師姐……!

新しい"主要キャラ"を漠然と男だと思い込んでいた己を恥じます。
余談だが、この上もなく良い意味でルーイエが女性である必要のない脚本だった。

特に理由もなく当然のように女性キャラが主役を張る、というのはいまだに嬉しいものだ。

誰かの恋人でもなく、手に入れたいトロフィーでも復讐のきっかけでもない女性のキャラクターが増えるというのは、それだけでエンパワメントになる。

前例がないのは怖いかい?ならお手本になりなさい

とちゃんみな先生も歌っている。

フィクションでもリアルでもなんでも、前例が増えれば増えるほど、続くわだちは増えて少女たちは歩きやすくなる。

ぶっきらぼうで不器用で、トラウマを抱えながら傷は癒えず、分かりやすい優しさを見せないルーイエを、それでも情の深い人物であると2時間をかけてじっくり描き出した脚本は本当に真摯だ。

物語を動かすためだけの上っ面だけの言葉を吐かせない。

他者を気持ち良くするためだけの中身のない優しさを持たせない。

すでに広く愛されている物語に新たに登場させるキャラクター、しかも女性を描く上でこれを徹底するのはきっととても難しい。

あえて巨大な主語で言うが、私たちはま〜〜〜〜〜〜だまだまだ女性に優しさや明るさ、朗らかさを無意識下レベルで求めてしまう。

そんなノンノンまだまだな2025年に、固く紐を縛ったコンバットブーツで降り立ったルーイエというキャラクターの複雑さは、「なかなか有るものでは無い」と言う意味も込めて「有難い」と思う。

そして何より、この物語を牽引すると言っても良いルーイエの強さに惹き込まれ、また同時にその強さの由来に打ちのめされることになった。

 

戦争映画としての『羅小黒戦記2』

物語の幕開け早々、銃火器で武装した足元が見えた瞬間に「あ、これは戦争の話をするのだな」と気付いた。

そこから描かれる、前作よりも視覚的に明らかな破壊や死。

その中でも私の喉がグッと締め付けられたのは、スコープ越しに撃ち抜かれる妖精たちの姿だ。

戦争すぎる、と思った。

引き金に掛かる指に感情や意思はなく、ただ義務として対象の頭を撃ち抜く。

もちろん、殺戮に信念があれば良いと言うわけではない。

聖戦やテロリズムを是とすることは絶対にない。(このテーマは前作が全身全霊で訴えていたように思う)

ただあの狙撃シーンでは、命を奪うことがいかに容易くルーチンになるのか、スコープ越しの命がいかに容易に「ただの的」になるのかがはっきりと示されていた。

撃つ。死ぬ。撃つ。死ぬ

その繰り返し。

冒頭の一連の展開はアクションではなく戦争の一幕であり、今作の敵が「戦争」であるということが早々に明らかになる、痛ましくも明確なテーマの開示だった。

私は、"戦争映画"は作られ続けるべきだと思っている。

そしてそれらは戦意高揚のプロパガンダや英雄を称える美談ではなく、100%の反戦映画でなければならない。

それでいうと『羅小黒戦記2』は、間違いなく反戦映画であった。

 

フーシーは人間を許せなかった。

というのはあまり正しくはない。

フーシーが許せなかったのは、生まれ育った森を奪われ、破壊され、コンクリートで囲われ、あまつさえ「あなたらしさを隠せばここで生きられる」とのたまう"共存"の傲慢と横暴だ。

今作の主人公となったルーイエは、人間が起こした戦争に巻き込まれ、慕う師匠や仲間、居場所を全て奪われる。

物語の終盤で描かれる無声の数十分は、人間と戦争によって植え付けられたルーイエの深い怒りと憎しみ、消えることのない傷を知るには十分な時間だった。

花火の音に身をすくませ、眠ることのできないルーイエには、新たな庇護者の手を取るだけの気力も無かったというのが残酷だ。

助けられるためには伸ばされた手を掴むだけの力が必要であり、混乱と恐怖に打ちのめされた人にはそのわずかな力さえないのだということ。

現実社会においても、セーフティネットからこぼれ落ちた、手を掴むこともできなかった人たちのニュースを見るたびに、どうにか出来なかっただろうかと悔しくなる。

そして、ムゲンは知ってか知らずが、ルーイエの手を強引に引くことはなく、ルーイエ自身が己を立て直していくのをただ見守った。

躊躇いなくムゲンの胸に飛び込み、手を伸ばせば握り返されると疑いもしないシャオヘイとは対照的だ。

どちらが正しい、という正誤判定に意味はないだろう。

ルーイエは与えられた時間を使って自ら傷をふさぎ、シャオヘイは与えられた愛情でもって己を癒した。

少女時代と仲間をもぎ取って行った人間を嫌いながらも、それ以上に強く「戦争」を否定するルーイエに至るには、庇護者の温かい手ではなく、時間という教師が大きな役割を果たしたのかもしれない。

ムゲンの弟子であり、シャオヘイの師姐である「執行人ルーイエ」は、ルーイエ自身の力で人間と戦争から取り戻したものなのだ。

だとすれば、あのピンクのワンピースの女の子は、ルーイエにも、ムゲンにさえも助けることの出来なかった、取り残された少女のルーイエに他ならない。

 

「もしも」の世界と弔い。そして恢復。

ルーイエの人生から無惨にちぎり取られ、どこにも行けないまま取り残された幼い少女。

その面影は、ムゲンに救われたシャオヘイと重なり、無邪気に笑いながらワンピースの裾をひるがえす。

それは、ルーイエに訪れたかもしれない優しい「もしも」の世界であり、シャオヘイにもたらされた温かな日常である。

ルーイエ自身にすら救うことの出来なかった少女が、救われた少年を通して「もしも」の世界を歩くことができた。

師の手を握り、撫でられ、甘えて笑う、あり得たかもしれない、それでも存在しない世界の幻。

この優しい幻影は、長い時を経てようやく訪れた少女時代への弔いなのだと思う。

弔うことで、人は別れを認識できる。

歪な形で大人にならざるを得なかったルーイエに僅かに残っていた少女の面影は、痛みと共にしか蘇らなかった過去は、シャオヘイを通して昇華され、街角へ消えていく。

 

『羅小黒戦記2』は戦争映画だと評したが、同時に類稀なる「恢復」の物語でもある。

少女姿のルーイエに、ハン・ガンの著書『すべての、白いものたちの』を思い出す。

 

著者であるハン・ガンは、自分が生まれてくる前に死んだ姉を「もしも」の世界に立たせる。

生後2時間で息をしなくなった姉がもしも生きていれば、自分は生まれてこなかった。

自分のいない「もしも」の世界で生きる姉の足取りを描くことは、祈りのようだと語られている。

失われたものを今あるものに重ね、生かすことは「もしも」の追憶であり、失われたものへの別れの時間を与える。

さようなら、をちゃんと伝えられることは、何よりの祈りで、恢復である。

 

己の少女時代に別れを告げられたルーイエにも、ようやく恢復がもたらされたのだと思う。