2025年に手元に来て良かったもの(生活、あるいはそれ以外)
2025年の半分は例年に比べると慎ましやかな購買活動だった。
まあ、引越しを3回行ったせいで貯金が全額吹っ飛んだというのは大きい。
そんな、あっちへこっちへの暮らしで安定しない私の手元にやってきたもの。
その中でも良かったなあと思うものをいくつか。
良かったコスメ
ラ・メール
ザ・リップ ボリューマイザー シアーグロウ

これは友人から誕生日プレゼントで頂いた。
リッププランパーはCipiCipiのガラスプランパーを使ったことがあるだけで、そして残念ながらプランプ効果や保湿感を感じることができず「ほ〜〜〜」のアイテムだった。
それを覆したラ・メールのこのボリューマイザー。
唇の縦皺、というものをあまり意識したことがなかった私を「縦皺が無いってこんな気持ちいいの?!」と驚愕させた補修力。
無くなってから気付くものって、大切なものだけじゃなかった。
縦皺、あったんだ。
このボリューマイザーをメイクの初めに塗っておくと、仕上げのリップまでの間に皮の硬い塊、皺をなきものにしてくれる。
硬くなった唇の皮の針山でリップスティックが削り取られることもなくなり、心なしかLAKAのティント残りも良くなった気がする。
あと、甘いナッツのような不思議な香りが面白い。
良かったバッグ
LASTFRAME
KYOTO METALLIC MARKET BAG MINI (STRAP) / DARK SILVER × BLACK

ラ・メールのリップを贈ってくれた友人の
「レザーはもう日本の夏を耐えられない」
という言葉に深く頷いて入手したラストフレームののびのびバッグ。
のびのびとは言えど、縦ににょーんとは伸びないし、膨らみ方も不細工では無い。


二つ折り財布、エコバッグ、ミニボトル、常備薬ポーチ×2、ハンカチという外出への恐怖がデカい私の最低限の荷物もなんなく入る。

全身黒ずくめになりがちな私のスタイリングに馴染みながらバッチリ輝くシルバーラメもかなりお気に入りだ。
カラー展開も豊富なので、ビビッドなバイカラーアイテムも追加したい気もする。
このバッグも友人が持っていたのを良いなあ、と思って目星をつけていたので、お買い物上手が身近にいるととてもありがたい。
KYOTO METALLIC MARKET BAG MINI (STRAP) / DARK SILVER × BLACK
良かったぬいぐるみ
THE MONSTERS LABUBU
Big into Energy

言わずと知れたラブブ。
この子はHAPPINESSと申します。
今年の9月ごろ、前二項目で登場した友人と遊んでいる時に「ラブブすごいよなあ」と言われ、思いっきり知ったかぶりをした。
たぶん、聞き取れてもいなかったと思う。
「あー、ンブブね。人気よな」
みたいな取り繕いをした気がする。
帰宅後、何気なくンブブ?マブブ?なんだっけ、と調べたら、あらかわいい。
ふあふあでパステルカラーで、お耳が長くて悪い顔をしている。
かあわいい。
女の子なのね、性別とかある世界観なのね。
と思いながら購入方法を調べたところまず入店抽選があり、購入順も運任せと来た。
何度か挑戦したのち11月の入店抽選に当選し、最終入店時間の回でギリギリ一つ購入できた。
私の二人あとのお客さんで売り切れていたので、本当に手元に来てくれてありがとうね、という気持ちだ。

このちいちゃなおててを見てください。
かわいいですね。
甥っ子さんの赤ちゃん時代を思い出す。
愛おしいという以外に言葉が見つからない。
甥っ子さんにベビー服を買っていたように、今はラブブに服を着せてやりたい。
自分で作るか、外注するか悩んでいる。
(甥っ子さんは今やモンベルのでかいリュックも背負えるぐらいになった。服を送るのは卒業かなあ)
良かったジュエリー
HIROTAKA
DOROSERA ダイヤモンドリング

ずっと欲しかったHIROTAKAのドロセラシリーズのリング。
値上げ直前に「やっぱどう考えても欲しい!!!!」という気持ちで駆け込んで、今はお出かけの時の頼れる相棒になっている。
指に巻き付く食虫植物のような有機的なフォルム。
寄生獣のミギーの瞳のように輝くダイヤモンド。
このシンプルながらも絶妙に妖しいデザインが本当に飽きない。
単品でもじゅうぶんに存在感があるが、こちらもヘビーユースのポメラートのブラウンダイヤのサッビアリングと重ねてもゴージャス。

よく拝見しているジュエリーアカウントの方を参考させていただいたが、この組み合わせは本当にゴージャスで着けるたびに新鮮に喜びが湧き上がる。
着けるたびに喜びが湧き上がるジュエリーというのは貴重なので、購入依頼ずっと嬉しい。
良かった家電
電気ケトル CK-SA06 GZ

短い一人暮らし時代から出戻り実家現在まで大活躍の電気ケトル。
言わずもがなだが、本当に湯沸かしへのハードルが無くなった。
ミルクパンに水を張ってコンロに置いて点火して沸騰するまで見守る、だけのことが意外とダルい。
ケトルに水を入れて台に置いて待つ、というケトルの手順の少なさと安全性が山となっていた紅茶のストックを激減させてくれた。
スープも飲むようになった。
ジュースをやめて茶を飲むようになった。
よく知らないが、温活になっているのでは無いだろうか。

あと、このダスティーグリーンがかわいい。
限りなくデフォルメされたゾウのイラストもゾウへの敬愛が感じられて良い。
クジラとゾウを敬い愛しているので、シンパシーを感じる。
良かった本
- 『鋼鉄紅女』シーラン・ジェイ・ジャオ
- 『目の眩んだ者たちの国家』キム・エランほか
- 『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェン
- 『すべての、白いものたちの』ハン・ガン

一つに絞れなかったので、フィクション、ノンフィクションから四つほど……。
『鋼鉄紅女』シーラン・ジェイ・ジャオ
襲い来る怪物たちに立ち向かう、巨大変形ロボに乗り込む男女パイロットの大活劇。
という設定をベースに、ロボに乗るたびに使い捨てにされ、国の供物になっていく女たちを救うために血に塗れながら覇道を拓いていく主人公・則天(ゾーティエン)が世界の仕組みと取っ組み合いし続けるという、どえらく敵の多い戦記になっている。
家族の安寧のために娘を国に差し出す両親、意に沿わぬ兵士を従わせるためにアルコール漬けにする組織。
我が子に性接待をさせて財を積み上げる大企業、国民の命をどう使えば自分たちが安全で豊かに生きられるかばかりに苦心する政府。
これら全てと戦い続け、数多の血を流した末に瓦礫の頂上に立った主人公が見た世界の真実とは。
続編の『天空龍機』が今夏発売され、一気に読み終えたが、すんげえよ。
本物の怒りとスペクタクルが、ここにある。
『目の眩んだ者たちの国家』キム・エランほか
セウォル号事件であらわになった、韓国という国家の傾き。
十二名それぞれの視点から語られる事件の輪郭が、船に乗っていた人々を決定的に"沈めた"のは社会と国家であるということを浮かび上がらせる。
セウォル号事件を取り巻く絶望と悲痛は、韓国の人々のものである。
それでも、傾く国家は決して他人事では無い。
以下は、読みながらブルースカイに投稿していた雑感だ。
「船の傾きが誰か、特別な人間にとって利益になるなら船員は船の傾きを維持することに専念する。あるいはその愚かな忠誠心か欲望によってもっと船を傾けるだろう。そのせいで乗客が幾人も甲板から滑り落ちて海の渦に引き摺り込まれていったとしても」
このたとえが喉につっかえて嘔吐感すらある>『目の眩んだ者たちの国家』
傾きに慣れすぎた乗客は「落ちて行ったあいつが弱いのだ」というかもしれないし、「落ちないよう踏ん張る努力を自分はしている」というかもしれない。
実際にそれは「節約術」「投資」「貯金」「セルフケア」という言葉に形を変えてよく見聞きする。私たちが既に棄民であるということに薄っすら気付きながら。
セウォル号にまつわる感情や経験を私が簒奪するわけにはいかないけど、不正義によって子供たちが死んでいくのを、ただ茫然と見ているしかできない恥ずかしさ、申し訳なさ、そして子どもたちを殺した不正義を支えてきた(今なお支えている)大勢のうちの紛れもない一人であるという罪悪感は共有されざるを得ず、読み進めるのがとてもつらい>目の眩んだ者たちの国家
それでも、帯にも書かれているファン・ジョンウンの言葉が「絶望」という容易な諦めを許さない。
どれほど簡単なことなのか。
希望がない、と言うことは。
この世界に対する信頼をなくしてしまったと言うことは。
「絶望」してその場を離れ、目を背けることができるのは「絶望」の外側にいる人間だけだ。
諦めることができるのは、諦めても生きていける人々だけだ。
様々な角度から語られる傾く国家は紛れもなく、今私たちが立っているまさにここのことでもある。
最後に2026年に向けて、私自身を監視する言葉として本文から引用する。
"平穏さの裏側では弱者たちの命をすりつぶす惨劇が繰り返される虚構の安全共同体、そうやって一部の者たちを集団的に排除する一方で、生き残った者たちは安全な国という幻想を信じ込まされる"
"日常の平和は、敵の武力侵攻によってではなく、生命の安全保障の体制の不備と国家の空白によって内部から脅かされる。"
『目の眩んだ者たちの国家』収録、チョン・ギュチャン著「永遠の災難状態」
『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェン
本屋をぶらつくと思いがけない本を手に取ることがある。
今年唯一の「たまたま立ち寄った本屋で見つけてなんとなく買った本」がこの『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』だ。
アロマンティック・アセクシュアル(aroace)である、と自覚してからさまざまな考え方や道筋にアクセスしやすくなったが、それでも未だに多くの人と同じ生き方が出来ないことに、呼吸が浅くなるような感覚に陥ることがある。
恋愛や性愛を経験できたら楽になれたろうにな、と思うとき、この本を思い出すことで「恋愛や性愛を経験できないことで苦しむ理由」が私の外側にある、ということも同時に思い出す。
恋愛と性愛が制度に組み込まれ過ぎている、ということ。
社会は「二人以上で生きること」を前提に作られている、ということ。
そして何より、恋愛と性愛は社会のためにあるわけではない、という当然の事実が明記されていることは、誰しもの苦痛を取り除く鍵になる。
恋人になる、ということはセックスの確約ではなく、セックスは誰かの価値を高める機能を持ちはしない。
社会やコミュニティの視線が性行為に本来ありもしない特権を与え、恋愛の当然一緒にあるべきものだと私たちに錯覚させている。
んなこたない、ということが、様々なセクシュアリティの人々へのインタビューや広く集められた文献やコンテンツの解読によって分かりやすく展開されている。
わざわざ読むのはちょっとな、という人も、以下の点だけでもちらっと見ていって欲しい。
『アセクシャルから見たセックスと社会のこと』ゆっくり読み進めて最終章ですが、アセクシャルに限らずアロマンスにもポリアモリーにも、もっと言えばアロー(性的惹かれを経験する人、性愛者)にも読まれて欲しい。捕捉範囲がめちゃくちゃ広い。
・恋愛×性愛を至上とする価値観は社会によって作り上げられたものなので個人レベルで解体していける
・セックスという"経験"はそれだけで人の価値を高めたりするものではない
・性行為への同意は「積極的にイエス」「望んではいないが相手が喜ぶならイエス」「本当はノーだが仕方なくイエス」ぐらいまで細分化できる=パートナー間においてもセックスを求める権利と応じる義務が発生するわけではないまた、トランスジェンダーは必ず恋愛と性愛を求めるだろう(そのために性の変更を望むのだろう)という馬鹿げた言説や、セックスを望むと"淫乱"と非難され、セックスを拒むと"保守的"と揶揄される人種やグループへの過度なセックスの規範化に対しても「これ変です!!!!!!」と明言されている
セックスの必要に迫られて悩むアローロマンス(恋愛的な惹かれを感じる人)にも、性行為の経験の無さをコンプレックスに感じているアロセクシュアル(性的惹かれを感じる人)にもぜひ読まれたいと思う一冊だ。
『すべての、白いものたちの』ハン・ガン
ここ数年はアジア文学に強く惹かれていて、その中でも韓国文学には多く触れている。
特に今年はキム・チョヨプのSFに漂う寂しさに慰められた一年だった。
キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』
— かこQ (@hontkn) 2025年11月6日
三本目の腕の移植を望む恋人。約束のために死を受け入れる異星人。同じ時間を認識できない最愛の姉。不可侵の「感覚」によって生じる断絶は理解や共感では埋められない。理解不可能性を受け入れ、記憶することが唯一のはなむけなのかもしれない。 pic.twitter.com/rCBSh5czSK
それでも『すべての、白いものたちの』を選んだのは、今更どうしようもない、だというのに今もまだ飲み込めない「死」というものとの向き合い方を新たに一つ教えてくれた教本となったからだ。
この本の中で語られる、もう居ない者への回顧と祈りは、実践しようとすると正直かなり難しい。
彼/彼女を思い出して、目の前に立ってもらう。
私が見た空を見て、歩いた道を歩いてもらう。
これを安易に試すと、その不可能さに挫けてしまう。
その恢復も、ハン・ガンの静かな文字を辿ることでやっと可能になる。
本屋で手に取ってペラっとめくったページの文章に「あ〜〜〜これは読みたい」と思った、その時の感覚のまま読み終えた。産着、雪、灰、骨、魚の腹。白いものたちは時に目を貫くように眩しく、時に驚くほど静かに佇む。動的な白と静的な白が生と死を繋ぐ全編が、もうここには無いもの(これからもあるはずだったもの)を追憶する礼拝堂のように機能する。
最初読み終えた時、この本のことを「礼拝堂」と例えたが、この本を読むことがそのまま、今はもう居ない人を思うことに繋がっていく。
そういった読み方すらも許す、誰しもに開かれた恢復の一遍だ。
良かった映画
羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来
『すべての、白いものたちの』の読了後ちょうど始まった『羅小黒戦記2』でも、既に失われたものへの葬送と恢復の道程が描かれていた。

物語があまりにもスバン!と胸に突き刺さったので別途書き起こしてもいる。
ルーイエの人生から無惨にちぎり取られ、どこにも行けないまま取り残された幼い少女。
その面影は、ムゲンに救われたシャオヘイと重なり、無邪気に笑いながらワンピースの裾をひるがえす。
それは、ルーイエに訪れたかもしれない優しい「もしも」の世界であり、シャオヘイにもたらされた温かな日常である。
ルーイエ自身にすら救うことの出来なかった少女が、救われた少年を通して「もしも」の世界を歩くことができた。
師の手を握り、撫でられ、甘えて笑う、あり得たかもしれない、それでも存在しない世界の幻。
この優しい幻影は、長い時を経てようやく訪れた少女時代への弔いなのだと思う。
弔うことで、人は別れを認識できる。
歪な形で大人にならざるを得なかったルーイエに僅かに残っていた少女の面影は、痛みと共にしか蘇らなかった過去は、シャオヘイを通して昇華され、街角へ消えていく。
『羅小黒戦記2』は戦争映画だと評したが、同時に類稀なる「恢復」の物語でもある。
少女姿のルーイエに、ハン・ガンの著書『すべての、白いものたちの』を思い出す。
著者であるハン・ガンは、自分が生まれてくる前に死んだ姉を「もしも」の世界に立たせる。
生後2時間で息をしなくなった姉がもしも生きていれば、自分は生まれてこなかった。
自分のいない「もしも」の世界で生きる姉の足取りを描くことは、祈りのようだと語られている。
失われたものを今あるものに重ね、生かすことは「もしも」の追憶であり、失われたものへの別れの時間を与える。
さようなら、をちゃんと伝えられることは、何よりの祈りで、恢復である。
己の少女時代に別れを告げられたルーイエにも、ようやく恢復がもたらされたのだと思う。
羅小黒戦記がアニメーションとして卓越していることは言を俟たないが、戦争遺児が自らを救う恢復の物語としても、比類のないものだと心の底から思う。
こんな物語に出会えたことに感謝しながら、こんな物語が国境を越えてやってきてくれたことの当然じゃなさにも目を向けたい。
傾く国家を立て直す努力もせずしがみついたままその内にひっくり返ってしまえば、手元に来て良かったものなんか一つも無くなるだろうから。
ノープランごつゆる旅と金沢の懐の深さ。(おまけあり)
こんにちは、こんばんは。
JUST DO ITの化身ことはとさんからお誘いいただきまして2025年のぽっぽアドベントに参加いたします。
10日(水)担当のかこQと申します。
(アドベントカレンダーのページでは別名義のオザキになっています。)
今年のテーマは「ゆきてかえりし物語」。
なので、まずは今年のはじめにワーイ!(喜)と行ってエーン!(寂)と帰ってきた旅行の話をします。
よろしくお願いします。
ノープランごつゆる旅と金沢の懐の深さ
2024年12月末。
高校時代からの友人たちと忘年会をしていた。
飲んだり食べたりボードゲームをしたり、友人たちのsuper cuteなbabysをみんなで代わる代わる抱っこさせてもらったりと盛り上がるなか、一人の友人がこんな近況を語った。
「そういえばこの間、家族で金沢に旅行に行ったんだけど、のどぐろがめちゃくちゃ美味しかった!」
それを聞いた我々は
「家族旅行良いじゃん〜〜〜!」
「赤ちゃんのうちからいろんなとこに行くのって良いね〜〜〜!」
「のどぐろか〜〜〜!食いてっ!」
「金沢どんな感じ〜〜〜?」
と口々に盛り上がった。
そしてこの、
「のどぐろか〜〜〜!食いてっ!」
を担当したのがたぶん私だったのだろう。
なぜなら、その旅行話を一緒に聞いていた友人から翌日
「昨日、金沢に行きたいって言ってたよね?じゃあ一緒に行こう!のどぐろ食べに!」
とメッセージが来たからだ。
思うに、人生をより楽しく過ごすために大事なのは
「やりたいことは口に出す」
こと。
あるいはそれ以上に
「ゴリゴリにフットワークの軽い友人の存在」
だと思う。
このゴリゴリにフットワークの軽い友人と、年明け2025年の3月に金沢旅行に行くこととなった。
目標は
「のどぐろを食べる!可能な限り多くの」
のみ!
行くぜ!
移動手段と宿だけ決めた、2泊3日のごつゆる(ごっつゆるい)金沢食い倒れ旅に!
注:ごつゆる旅なので、美味しかったお店の紹介などはほとんどありません。
見つけたお店に飛び込むスタイルのため、ろくすっぽ記録がないのがごつゆる旅。
金沢に来るなら、春か夏か秋か冬がいいと思います。
これは、北陸新幹線が金沢まで開通した2015年に金沢駅に掲げられていた、旅行客を迎える垂れ幕の文言だそうだ。
季節もイベントも関係なくいらっしゃい。
という懐の深さを感じられて、良い。
何より、私たちが訪れた2025年3月時点ではもう垂れ幕は無かったが、この言葉は体感的に
「マジで、そう」
だった。
ノープラン二人、バスさえあれば何とでも
3月下旬。
大阪と東京からおのおの新幹線でワーッと2時間ほど移動して金沢に到着。
金沢駅での再会の喜びも冷めぬまま、踊るように向かったのはチェーンの回転寿司店「すし食いねぇ!」。
金沢駅周辺にはチェーンの回転寿司店が点在しており、口コミを見てもどこも評価が高い。
気負わず悩まず適当に空いてる店に踊り込もう!
そして食おう!
寿司を!

のどぐろの握り。意外とシャキッとした歯応え。でも油と旨みが濃〜い。

まぐろと……何……?
スズキかなあ。
まあでもとにかくうまい。
二人で行くと一貫ずつ分けっこ出来て最高。
初っ端からあっさりと旅の起点である「のどぐろか〜〜〜!食いてっ!」が叶ってしまった。
思いもよらず幸先の良いスタートを切ることができた。
ヤッピー!(ヤッター!&ハッピー!)
ノープランごつゆる旅の良いところは、何となくのチョイスが大正解だとめちゃくちゃ嬉しい、というところ。
そのうえ、ノープランがゆえに明確な失敗もない。
たとえば、「すし食いねぇ!」を後にし向かった金沢城公園。

花、咲かず。
葉も、無く。
雲、広がり。
でも、これも、良い!!!!
旅行に満開の花は必須?
光り輝くイルミネーションがなければダメ?
そんなことは、ない。
雨雲が垂れ込めていようが木々が裸ん坊だろうが、楽しむ気持ちさえあれば記念写真に映るのはビッグスマイル!
「見るべき」とか「やるべき」の誘導や、「せっかく来たんだから」という強迫観念的な焦りがないノープランごつゆる旅は、「どこにいても何をしていても楽しい」。
何より、金沢は兼六園や21世紀美術館、ひがし茶屋街といった定番の観光地が周遊バスで繋げられているので本当に移動が楽ちんだ。
楽しい気分が移動の煩雑さでぶちぶち途切れる、ということがない。
バスにピョンと乗りゃあどっか良いとこに着く、という懐の広さが金沢にはある。

ひがし茶屋街は灯籠の灯る日暮れが綺麗だ。
3月はまだまだ寒みぃ〜が「オ〜〜〜さむ、awesome」などと言いながらカフェの席が開くのを待つのも楽しい。

選べるのにドリンクもスイーツも抹茶にした私と、バランスよく飲み物はほうじ茶にした友人。
友人は「両方抹茶にする、というのも大人の選択かもしれない」と言ってくれた。
優しい。

ひがし茶屋街でしろいねこを追いかけても良い。
ねこがスゥ……と路地裏に消えるまでただ見つめた。
ノープランだから。

旅館での夕食後に部屋で酒を追加で飲んでも良い。
明日の朝ちょっとしんどくても構わない。
ノープランだから。

「More Joy」(より一層の喜びを)と書かれたスウェットを着ているのにあら汁を注文しない、という選択をしても良い。
たぶんまた食べる機会があるだろうし。
ノープランだから。

やることが思いつかなかったらベタな観光地に行ってソフトクリームを食べたら良いし、

思いつきでハーバリウム制作体験をやっても良い。
帰る時間は未定で、乗車時間を何回でも変えられる新幹線のチケットを取っている。
ノープランだから。
そうしてお互いに食と遊びに満足した頃、「まあぼちぼち帰るか、寂しいけど」という名残惜しさと共におのおのまた西と東へ帰って行った。
ごつゆるノープラン食い倒れ旅は、かなり金沢の懐の広さに支えられたと思う。
海鮮は基本的にどこで食ってもうまい。
特に口コミも見ずに適当に入った居酒屋の釜飯だってうまい。
酒は当然うまい。
観光地もバスでぐるぐる回ることができるので移動の懸念もない。
金沢から少し離れるが、特急に乗って30分ぐらいで温泉郷(加賀温泉)に行けるので急な露天風呂三昧だって簡単だ。
そして何より、ノープランにすることで時間的な拘束や下調べの必要がほとんどなかったことが、個人的に新鮮だった。
旅行中なのに、目の前のことだけ気にしていれば良い。
移動時間も、施設の営業時間も、次の行程も気にせず、思いつきで友人とワハワハ笑いながら流れていくような旅。
それがノープランごつゆる旅。
とはいえ、こんなに楽しい時間を過ごせたのは、おおらかで愉快でゴリゴリにフットワークの軽い友人の存在が大きい。
この旅を通じて、友人の素敵なところ(たくさんあるから書ききれない)にも改めて気付かされたと思う。
金沢と友人は、同じくらい懐が深い。
明日11日の担当ははきやまさん!
長崎旅のことを描きます、とのことです!
きやまさんのイラストが好きないちファンとしてとても楽しみです!
おまけ
行きて帰りし旅、というには普通の旅行記になったのでおまけの話。
この4月から新しい職場で働くことになった。
勤務地は実家から通うと1時間半から2時間ほどかかるため、3月の半ばには職場から20分ほどのA市に居を構えた。
ところが。
2月末には人事に「ほぼほぼA市での勤務だと思ってもらって大丈夫です」と言われていたのが仰天、3月末に送られてきたのはB市への配属通知。
新居からB市までは乗り換え4回で約2時間ほど。
暴れたろかと思った。
その辺の道端に寝転がってダ・ヴィンチの人体図みたいにバタつきたかった。
/キィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッ\
でも、グッと堪えて、配属通知を待たなかった己をしばきあげて、1ヶ月ほどA市からB市まで通勤した。
9時始業のために7時過ぎには家を出て、21時退勤でも家に着くのは23時前。
あったま変なる〜〜〜!!!!
となり、5月半ばにB市に転居。
一生懸命探したA市の素敵なお家♡は1ヶ月と少しだけのお付き合いになった。
そして、B市に転居してから5ヶ月ほど経った9月。
辞めました。
もう色々とあったま変なる〜〜〜!!!!
となったので。
約半年で実家に戻ってきました。
出ていく時は「もうあと何回ぐらい両親に会えるのだろう……」としんみりしていたのに、今では毎日顔を突き合わせている。
「親の顔より見た〜」というネットスラングがあるが、親の顔より見たものは正直ない気がする。
ゆきてかえりし人生、親の顔の視聴率が伸び止まない。
おまけのおまけ
そして言いたい。
本当に伝えたい。
みんな!!!!!!
短期間で引越し、というか住民票の移動を繰り返すと投票権(選挙人名簿への記載)が無くなるよ!!!!!!!
3ヶ月以上同一の市町村に住民票がない場合、投票権が無くなる(選挙人名簿に乗らなくなる)んだって!!!!!!
私は今年7月の参院選に投票できなかったよ!!!!!!!!!
どういう状況だったかというと、
実家←住民票があったのは3月まで(7月時点で3か月以上前)
A市(5月時点在住)←3ヶ月も住んでいない
B市(7月時点在住)←3ヶ月も住んでいない
「3ヶ月以上同一の市町村に住民票がある」という条件を7月時点で満たせていなかったので、いずれの市町村でも投票権がない(選挙人名簿に載っていない)ということに。
選挙の準備のために毎日どえらい残業をしていた私は選挙に行けませんでした。
暴れたろかと思った。
キィーーーーーーーッッッッッ
とにかく、不正な投票を防ぐためのルールらしいが、知らなかった。
もちろん今の今まで知らなかった私が悪い。
が、私のような、己の凡ミスで参政権の行使ができなくなった知的な木の棒みたいな人間が生まれないためにももう一度。
国政選挙周辺の引越し(住民票の移動)には気を付けよう!!!!!!
ね!!!!!!!!!!
『ひゃくえむ。』とセッションできない空虚さを抱えて歩く。
映画『ひゃくえむ。』を観た。
けっこう前に。

ひゃくえむ。、なんて乾いた語り口。スポーツへの熱狂を否定も肯定もせずに、キャラクターたちそれぞれの哲学だけで100mを走り切る一瞬の最高温度を計り切る。破天荒でも紋切り型でもない、例えるなら散文詩のような新しい撮り方の映画だった。良いもん観た〜〜〜〜!!!!!!!!

ひゃくえむ。を最後まで気持ちよく見れた理由はたくさん挙げられるけど、「スポーツ漫画だけど根性ではなくずっと哲学の話をしている」「キャラクターたちを追い詰めるのはマスキュリニティではなくマッドネス」は大きいかも。個人という極小の単位で葛藤してる。周りを巻き込んで破滅(多くはパートナーや配偶者、家族)していく主人公を観たい気分の時ってあんまりないから助かったな。
鑑賞直後の感想には、今でも「せやね」と思う。
映画『ひゃくえむ。』の乾いた質感と灼熱の狂気のコンビネーションはあまり出会えないタイプの組み合わせで、あまり出会えないものに突然出くわすというのはいつだって嬉しい。
レビューも見ずに入った創作料理のお店が思いもよらず絶品ばかりでラッキー!ハッピー!みたいな感覚。
だというのに、その嬉しさを感じながらずっと
「助けてくれーーーーーー!!!!!!!」
と思っている。
「寂しーーーーーーーー!!!!!!!」
とも。
この飢餓感の由来をひたすら考えて1ヶ月。
たぶんこれやなあ……というイメージが思い浮かんだ。
『ひゃくえむ。』とセッションが出来なかった。
『ひゃくえむ。』、良い映画。
『ひゃくえむ。』の原作漫画は未読だが、作者である魚豊氏の『チ。ー地球の運動についてー』は一通り読んだり観たりとエンジョイさせてもらっている。
世に出た順番としては『ひゃくえむ。』の方が先だが、物語の湿度管理と哲学的な思考をベースに動くキャラクター造形は『チ。』から一貫している。
映画『ひゃくえむ。』の
「その距離は時間に権力を与える」
という開幕のモノローグには、まさしく欲しいものが来た、という快感すらあった。
脳内の鈴木雅之も「そう、これこれ」と満足気だ。
セリフ一つで物語の世界観と美学を叩き込んでくる、魚豊作品の言葉の圧力はすごい。
今まで一度も思ったこともない、考えたこともない論理が真理に聞こえる。
そういう怖さすらある。
劇中でも印象的なセリフが度々登場するが、そのどれもが論理で基礎固めされていて堅牢だ。
母校での財津のスピーチ。
現実逃避を決行する海堂。
一瞬の栄光を確信する小宮。
物語の始まりとなるトガシの一言。
これらのセリフは全て各々の人生哲学に補強されている。が、同時にとても情熱的だ。
「現実ごときが俺の意思には追いつけない」
これは海堂の言葉だが、論理をブチ抜く情念がある。
「人生なんてくれてやれ」
淡々と謳われる財津の演説は、その語り口とは裏腹にその身を焼き尽くすような業火に包まれている。
大概、論理と感情は対比して並べられる。
ところが『ひゃくえむ。』の中では、乾いた論理とじっとりとした手触りのある感情がガッツリ肩を組んで、静かな語り口とは裏腹なパワフルさで迫ってくる。
そんなイレギュラーな分子結合が、魚豊作品の言葉の圧力の源なのだと思う。
映画『ひゃくえむ。』は、その圧力の調整が上手かった。
主役二人、トガシと小宮をそれぞれ俳優キャスティングにすることで、二次元と三次元の境界線を滲ませる。
聞き馴染んだ声優の声ではないからか、「トガシ」と「小宮」が他の誰でも無い個人として存在していた。
声優の演技が作品のクオリティを担保している一方で、「あ、あの声優さんだ」とキャラクターの外側を認識してしまうのは仕方がない。
その無意識の連想ゲームを、声優ではない役者の起用で上手く回避している。
さらにロコスコープという撮影技法と組み合わさることで、現実世界のぬるりとした感触がアニメーションのパキッとした輪郭線の中に収まっている。
生身の人間の継ぎ目のない滑らかな動作と、魚豊氏の鋭利なキャラクターデザインが面白い視覚効果を生んでいる。
こういった、生々しい湿度のある情感や質感と、ピリッとひりつく淡麗辛口の論理やデザインのバランスが脳にも視覚にも特殊な快感をもたらしている。
サウナの交互浴的な心地よさだ。
私がこの作品にいいねを送っているのも、脳に捩じ込まれる論理とハートにぶち込まれる情熱の緩急にラブです……となったからだ。
ラブです……。
ラブなのに……。
ラブなのに、なのだ……。
セッション失敗
【悲報】構造の話しかしていない!
ここまで来て、映画の構造の話しかしていない!
「この組み立て方はいいね」
としか言っていないのだ!!!
心の話、全然していない!!!!!!
ラブ……とか指ハートを送りながら、実のところ私の"心"が震えたかと言えば、正直問題震えていない!!!!!!
いいなあ、と思ったエモーションも、劇中で明確に描かれた感情を無加工で受け取ったに過ぎない!!!!
心が!!!!!!
熱くなってない!!!!!!!!
どうして!!!!!!!!!!
あのーーーーーー、、、、、
そのーーーーーーーー、、、、、
「悔しい」
とか
「勝ちたい」
とか
「これがなきゃ」
とか、
そういった"執念"が、、、、、、
ないんよね、、、、、、、、、
物語が心に響くときって、物語が提示した事象に対して自分が感情や記憶といった手札を素早く、種類豊富に出せたときだと思う。
たとえば簡単な例で言うと、親しい人を亡くしたキャラクターの涙を見たとき、それに対して自分の経験や感情が反射的にそこに上乗せされる。
実際に家族や友人を亡くしていれば、そこに実体験としての悲しみが重なるだろうし、経験がなくともその悲しさはおそらく誰しもに共感されうる。
逆に、人の死がな〜〜〜んもつらくない、悲しくない、生物の宿命っしょ、な人にとっては死を悼む一幕は意味のない、あるいは困惑すらもたらすシーンになるだろう。
言ってしまえば、物語を楽しむためには相応の感情と経験を場面ごとに手札から取り出して適宜対応させる必要があるのだ。
劇場映画は特に、問答無用で進んで行ってしまい、一時停止も巻き戻しも効かないのでリズムが大事だ。
その瞬間に対応する感情を自分の手札から取り出す、また次のシーンでは別の感情を取り出す。
向こうが提示する、こちらは乗っかる、向こうが提示する、こちらは乗っかる。
そういうやり取りを無意識下で繰り返すことで、物語が自分の感情や経験と共鳴して心が震えるのだ。
物語と上手くセッション出来たら、最高。
私が『ひゃくえむ。』で心を震わせることが出来なかったのは、つまりこのセッションが出来なかったということだ。
経験値で映画の構造に感嘆したものの、物語やキャラクターが醸す「感情」に対して出せる合いの手がなかった。
無かった手札は、「執念」だ。
「勝ちたい」「悔しい」「これがなきゃいけない」
そういう感情がほ〜〜〜〜〜んとに無い。
すっからかんよ。
なぜなら、八方美人のコバンザメ、平均所得のスネ夫として生きてきたからだ。
オタクのコミュニティに属しつつ、ギャルの無茶振りにも応えて上手い汁を吸う。
最初からいじられキャラとして振る舞うことで、いじめられない安定した立ち位置を得る。
クラスメイトに嫌われず、教師に好かれ、同僚に信頼され、上司に守られるために「悔しい」「負けたくない」という感情は邪魔だったのでポイポイと捨ててきた。
捨ててきた結果、執念や情熱が分からないすっからかん人間になってしまった。
執念が分からないので、トガシの涙も理屈で解読できても共感がない。
情熱が分からないので、「ガチ」の熱さを感じられない。
こんなの、葉加瀬太郎もしょんぼりしてバイオリンをケースにしまっちゃうだろう。
この「執念のなさ」がずっと感じていた
「助けてくれーーーーーーーー!!!!!!」
の正体だ。
自分の「無い感情」と向き合わされて苦しいのだ。
『ひゃくえむ。』の情熱が心に力強く訴えて来れば来るほど、虚しくあいた空洞に反響するばかり。
むしろ空虚さが浮き彫りになってしまった。
感情を不要!不要!と処分してきたせいで、物語とセッション出来なかった。
悲しい気持ちはある。
ちゃんと悔しがりたいし、熱くなりたいし、執着したい。
でも、無いは無いなりに、この「無さ」について1ヶ月もぐるぐると頭を悩ませられて楽しかった。
執念のなさのおかげで今のまあまあ好きな自分もいることだし。
空虚さだって、「空虚さがあるなあ」と思えば扱い方も分かってくるだろう。
おまけ
私が走る姿を見た母に
「どうしたん?!身体の使い方が分からないみたいな動き!壊れたマリオネット?!?」
と評され、
50mを11秒〜12秒台で走る私を見た友人に
「ウサイン・ボルトにおんぶされて走ってもらった方がむしろ早い」
「災害とか危険なことが起きたとき、走って逃げるのは諦めて助けを呼びなさい」
と心配され、
決められた周回数を走りきれなかった持久走の授業中、教師に
「もういいよ!チャイムが鳴ってるからもう十分だよ!」
となだめられたほどの走り下手なので、どうか、どうか今後の人生において走ることが必要な瞬間が訪れませんように。
永遠に歩いていけますように。

『羅小黒戦記2』はなんの話?恢復の話!〜『すべての、白いものたちの』を読みながら〜
羅小黒戦記2公開!最高!!!!
だ〜いすきな『羅小黒戦記』の続編がついに公開!
5年間、ひたすらフーシーの願いと行動とその結果についてめそめそと考えていたので、その後の物語を楽しみにしつつもかなり緊張していた。
なんか、フーシーがいない物語の先に行ってもいいのかなと。
続編が素晴らしいものであったとして、その素晴らしさがフーシーの記憶を塗り潰してしまうなら寂しすぎる。
「あなたの居ない世界で私は笑っていいのでしょうか症候群」とでも言うべきか。
もしこの後ろめたさにちゃんと名前があるならぜひ教えて欲しい。
でも、シャオヘイのこともムゲンのことも心から愛しているので、後ろめたさを言い訳に見ないわけにもいかず、ワーーーーーーーーー!!!!と観に行った。
そしてワーーーーーーーーー!!!!!と出てきた。
よ、良かった……。
事前情報を何も入れずに飛び込んだので、キービジュアルにいるかっこいい新キャラが「スマートな青年」じゃなかったことに驚いた。
ルーイエ師姐……!
新しい"主要キャラ"を漠然と男だと思い込んでいた己を恥じます。
余談だが、この上もなく良い意味でルーイエが女性である必要のない脚本だった。
特に理由もなく当然のように女性キャラが主役を張る、というのはいまだに嬉しいものだ。
誰かの恋人でもなく、手に入れたいトロフィーでも復讐のきっかけでもない女性のキャラクターが増えるというのは、それだけでエンパワメントになる。
前例がないのは怖いかい?ならお手本になりなさい
とちゃんみな先生も歌っている。
フィクションでもリアルでもなんでも、前例が増えれば増えるほど、続くわだちは増えて少女たちは歩きやすくなる。
ぶっきらぼうで不器用で、トラウマを抱えながら傷は癒えず、分かりやすい優しさを見せないルーイエを、それでも情の深い人物であると2時間をかけてじっくり描き出した脚本は本当に真摯だ。
物語を動かすためだけの上っ面だけの言葉を吐かせない。
他者を気持ち良くするためだけの中身のない優しさを持たせない。
すでに広く愛されている物語に新たに登場させるキャラクター、しかも女性を描く上でこれを徹底するのはきっととても難しい。
あえて巨大な主語で言うが、私たちはま〜〜〜〜〜〜だまだまだ女性に優しさや明るさ、朗らかさを無意識下レベルで求めてしまう。
そんなノンノンまだまだな2025年に、固く紐を縛ったコンバットブーツで降り立ったルーイエというキャラクターの複雑さは、「なかなか有るものでは無い」と言う意味も込めて「有難い」と思う。
そして何より、この物語を牽引すると言っても良いルーイエの強さに惹き込まれ、また同時にその強さの由来に打ちのめされることになった。
戦争映画としての『羅小黒戦記2』
物語の幕開け早々、銃火器で武装した足元が見えた瞬間に「あ、これは戦争の話をするのだな」と気付いた。
そこから描かれる、前作よりも視覚的に明らかな破壊や死。
その中でも私の喉がグッと締め付けられたのは、スコープ越しに撃ち抜かれる妖精たちの姿だ。
戦争すぎる、と思った。
引き金に掛かる指に感情や意思はなく、ただ義務として対象の頭を撃ち抜く。
もちろん、殺戮に信念があれば良いと言うわけではない。
聖戦やテロリズムを是とすることは絶対にない。(このテーマは前作が全身全霊で訴えていたように思う)
ただあの狙撃シーンでは、命を奪うことがいかに容易くルーチンになるのか、スコープ越しの命がいかに容易に「ただの的」になるのかがはっきりと示されていた。
撃つ。死ぬ。撃つ。死ぬ
その繰り返し。
冒頭の一連の展開はアクションではなく戦争の一幕であり、今作の敵が「戦争」であるということが早々に明らかになる、痛ましくも明確なテーマの開示だった。
私は、"戦争映画"は作られ続けるべきだと思っている。
そしてそれらは戦意高揚のプロパガンダや英雄を称える美談ではなく、100%の反戦映画でなければならない。
それでいうと『羅小黒戦記2』は、間違いなく反戦映画であった。
フーシーは人間を許せなかった。
というのはあまり正しくはない。
フーシーが許せなかったのは、生まれ育った森を奪われ、破壊され、コンクリートで囲われ、あまつさえ「あなたらしさを隠せばここで生きられる」とのたまう"共存"の傲慢と横暴だ。
今作の主人公となったルーイエは、人間が起こした戦争に巻き込まれ、慕う師匠や仲間、居場所を全て奪われる。
物語の終盤で描かれる無声の数十分は、人間と戦争によって植え付けられたルーイエの深い怒りと憎しみ、消えることのない傷を知るには十分な時間だった。
花火の音に身をすくませ、眠ることのできないルーイエには、新たな庇護者の手を取るだけの気力も無かったというのが残酷だ。
助けられるためには伸ばされた手を掴むだけの力が必要であり、混乱と恐怖に打ちのめされた人にはそのわずかな力さえないのだということ。
現実社会においても、セーフティネットからこぼれ落ちた、手を掴むこともできなかった人たちのニュースを見るたびに、どうにか出来なかっただろうかと悔しくなる。
そして、ムゲンは知ってか知らずが、ルーイエの手を強引に引くことはなく、ルーイエ自身が己を立て直していくのをただ見守った。
躊躇いなくムゲンの胸に飛び込み、手を伸ばせば握り返されると疑いもしないシャオヘイとは対照的だ。
どちらが正しい、という正誤判定に意味はないだろう。
ルーイエは与えられた時間を使って自ら傷をふさぎ、シャオヘイは与えられた愛情でもって己を癒した。
少女時代と仲間をもぎ取って行った人間を嫌いながらも、それ以上に強く「戦争」を否定するルーイエに至るには、庇護者の温かい手ではなく、時間という教師が大きな役割を果たしたのかもしれない。
ムゲンの弟子であり、シャオヘイの師姐である「執行人ルーイエ」は、ルーイエ自身の力で人間と戦争から取り戻したものなのだ。
だとすれば、あのピンクのワンピースの女の子は、ルーイエにも、ムゲンにさえも助けることの出来なかった、取り残された少女のルーイエに他ならない。
「もしも」の世界と弔い。そして恢復。
ルーイエの人生から無惨にちぎり取られ、どこにも行けないまま取り残された幼い少女。
その面影は、ムゲンに救われたシャオヘイと重なり、無邪気に笑いながらワンピースの裾をひるがえす。
それは、ルーイエに訪れたかもしれない優しい「もしも」の世界であり、シャオヘイにもたらされた温かな日常である。
ルーイエ自身にすら救うことの出来なかった少女が、救われた少年を通して「もしも」の世界を歩くことができた。
師の手を握り、撫でられ、甘えて笑う、あり得たかもしれない、それでも存在しない世界の幻。
この優しい幻影は、長い時を経てようやく訪れた少女時代への弔いなのだと思う。
弔うことで、人は別れを認識できる。
歪な形で大人にならざるを得なかったルーイエに僅かに残っていた少女の面影は、痛みと共にしか蘇らなかった過去は、シャオヘイを通して昇華され、街角へ消えていく。
『羅小黒戦記2』は戦争映画だと評したが、同時に類稀なる「恢復」の物語でもある。
少女姿のルーイエに、ハン・ガンの著書『すべての、白いものたちの』を思い出す。
著者であるハン・ガンは、自分が生まれてくる前に死んだ姉を「もしも」の世界に立たせる。
生後2時間で息をしなくなった姉がもしも生きていれば、自分は生まれてこなかった。
自分のいない「もしも」の世界で生きる姉の足取りを描くことは、祈りのようだと語られている。
失われたものを今あるものに重ね、生かすことは「もしも」の追憶であり、失われたものへの別れの時間を与える。
さようなら、をちゃんと伝えられることは、何よりの祈りで、恢復である。
己の少女時代に別れを告げられたルーイエにも、ようやく恢復がもたらされたのだと思う。
羅小黒戦記(2020)で取り憑いた亡霊を祓う〜コロニアリズムをぶっ飛ばせ〜
『羅小黒戦記』劇場版第2弾公開おめでとう!
最高!
ありがとう!
本当にありがとう!
この作品鑑賞以前と以降で私の人生も分けられてしまうような、そんな決定的な出会いに感謝!
5年ぶりの続編公開を記念して、お祓いを行います!
前作公開当時、私に取り憑いた苦悩と混乱という亡霊の……。
『羅小黒戦記』を初めて観る。
2020年に羅小黒戦記の劇場版1作目を鑑賞した。
当時は中国発のアニメーション作品だということ以外何も分からなかったが、タイムラインの映画鑑賞人たちが口を揃えて
「ヤバい」
「凄い」
「ヤバ凄い」
と言っていたので、ほな観んとあかんなあ、と塚口サンサン劇場に訪れた。
ヤバかった。
いやいや嘘でしょうちょっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっと待って欲しいあのさ、、、、、、、、、、100点を期待して観に行ったら「無限」を提示されて評価とかブッ飛んだんですけど『羅小黒戦記』??????????????????????????????????????????? pic.twitter.com/E7BoAXY6oi
— かこQ (@hontkn) 2020年1月27日
鑑賞直後のツイートも、感動のあまりテンションが空回りして正直何を言ってるのかよく分からない。
開始10分で≪良さ≫に涙腺が試合終了して「もうこれ以上何が来ても泣いたりできないない…」てなったのに
— かこQ (@hontkn) 2020年1月27日
キャラクター「最高ですみません…」
ストーリー「最良ですみません…」
アクション「絶好ですみません…」
総員起立「「「最高傑作ですみません…」」」
でゲロシャブに泣いた羅小黒戦記キツ… pic.twitter.com/bU7BTXoO5X
こっちではゲロシャブに泣いている。
気持ちが昂ると吐き気がする難儀な体質なので、良すぎるものと出会うと結構しんどい。
多くのファンが味わったと思うが、『羅小黒戦記』のおもしろさに打ちのめされて、頭がわたパチでいっぱいになったような気分だった。

その頭わたパチ状態で何度か劇場鑑賞したのち、最初の『羅小黒戦記』の上映が終了した。
『羅小黒戦記』を吹替で見る。
取り憑かれる。
2020年11月、字幕版の好評に応えて吹替版が上映された。
亡霊は、ここで私に取り憑いた。
日本語吹替のおかげでより濃く深くストーリーを理解することができた。
また、初公開時より多くの人の感想を目にすることで新たな知見を得た。
そのことで、私の頭の中のわたパチはしゅわしゅわとしぼみ、代わりに思考が戻ってきた。
変わらぬ感動と興奮と、多大な混乱と共に。
当時、ツイッターのフリート機能が全盛期だったため、ネタバレ防止も兼ねて脳から直出しの考えをアップしていた。
そのスクリーンショットを残していたので、それを見返しながら思考を整理して行こうと思う。
亡霊の訪れ

公開拡大のおかげで色々な批評に触れ、夢見心地から戻ってきた時に気付いた『羅小黒戦記』の"戦記"の側面。
公開中の続編冒頭においても、この物語がどこまでも"戦記"であることを突き付けられる。
あ、怒ってる。
どの立場からかは分からないが、とても怒っている。

ところで私はマーベルのX-MENが大好きだ。
とりわけ、プロフェッサーXとマグニートーの若かりし頃を描いた『X-MEN ファースト・ジェネレーション』のシリーズを悲喜交々に愛している。
マグニートーとは、特殊な能力を生まれ持った「ミュータント」と呼ばれる存在が、人類の多くを占める"普通の人々"に利用され虐げられることのない世界を暴力的な方法でもって実現しようという、X-MEN劇中最強の敵である。
マグニートーは言う。
「我々に隠れて生きろと?」、と。
館の妖精たちが支持する「人間との共存」に明らかな嫌悪感を示すフーシーは、能力を隠し、あるいは人の役に立つことで共存を"許される"立場になることを拒むマグニートーに重なって仕方がなかった。

フーシーの言う「ここ」は物質的な場所のみを意味しない。
自分が生まれ、育ち、慈しんできた居場所を切り売りされた憤り。
ここがダメならどこかに、というわけにはいかない、故郷から放逐されたもの正当な怒りは「共存」という蓋では抑え切れるものではなかった。

またX-MENの話をしている。
XFCとは『X-MEN ファースト・ジェネレーション』の通称のようなものだ。
また、「チャ」はのちに人類とミュータントの共存を導くプロフェッサーXとなる青年「チャールズ」、「エ」はチャールズと一時期志を共にしたものの袂を分ち、過激なミュータント絶対主義の集団の長となる「エリック」という青年を指す。
鉄を操るという能力で、自らに降り注いだ弾頭を軍人たちに打ち返し殲滅を図ろうとするエリックを制止するチャールズのセリフがある。
「彼らは善良な人間だ。ただ命令に従っただけだ」
それに対して怒りに震えるエリックが答える。
「そういう奴らが俺の人生を滅茶苦茶にした」
幼少期、ナチスの軍人に能力を利用されようとしていたエリックは見せしめに母親を銃殺されていたのだ。
人々が状況や命令に従い、良心を捨てて無辜の人間を殺戮することを身をもって知っているエリックは軍人たちに弾頭の雨を降らせ、チャールズと袂を分つ。
シャオヘイの
「いい人間もいる」
という言葉は、決して間違いではない。
彼が人間から受け取った優しさに嘘はない。
ただ、フーシーにそれを言っても仕方がなかった。
フーシー自身、人間と共生できていた時期もあると懐古している。
「いい人間がいる」ことはフーシーも、あるいはシャオヘイよりも知っているだろう。
そして、「いい人間」が事由によっていとも簡単に己の居場所を簒奪していくということも。

これは、「人間に存在を知られずに生きること」を掟とする館の方針にかなり怒っている。
アイデンティティを隠して生きろ。
さもなくば隠れて生きろ。
これは、本当に、どうかと思っている。
共生や共存って、他方が頭を低くして生きることだったかな?????
あまりに植民地主義に追従しすぎていませんか????
妖精が妖精であるということを隠して生きろというのは間違いなく文化・価値観の矯正であり、アイデンティティや尊厳を損なうものであり、コロニアリズムの骨頂ではありませんか?????
日本のアニメーション作品『プロメア』でも、炎を出す異能を発症した人々「バーニッシュ」を先導する少年リオに対して、消防士の青年ガロが
「炎を出すのを我慢できないのか」
と問うが、リオは
「炎はバーニッシュの誇りだ」
と跳ね除ける。
『プロメア』の中でも印象的なシーンだ。
(このシーンが白眉だからこそ結末には不満がある)
共存はどちらか一方の我慢や犠牲の上で成り立つものではない。
仮にその関係に力の勾配があるのであれば、それは共存ではなく支配に他ならない。

奪われた土地を暴力でもって取り戻すことを肯定はしない。
環境や状況に適応して生きていくことを否定はしない。
それゆえに、世界を知り始めたシャオヘイが選ぶ未来は決して二択に絞られたわけではない。
シャオヘイだけが生きることのできる、シャオヘイだけの未来がある。
そして、現在公開中の続編ではシャオヘイの未来を共に開いていく、また同時にシャオヘイによって己の未来を見定めていく眩しいキャラクターが登場する。
"ぼくらが望む未来"のアンサーがこれまた本当に素晴らしかった。
彼女の出した答えに、5年越しの怨霊も祓われたのだと嬉しい。
フーシーの木に取り縋って泣いてちゃどこにも行けないからなあ。
フーシーのいない世界でも私の心は動きました。そのことに泣きそうです。
— かこQ (@hontkn) 2025年11月7日
最後に怖いツイートで終わります。
さよなら。
雑談を記憶しておくストレージが海馬にない。
友人たちと遊んだ一日の終わり、よく言われるのが「何を喋ったのか全然思い出せない」だ。
まあ、気心の知れた相手とする話なんて、良くも悪くも中身の無いことが大抵だ。
周囲の友人たちは続々と30代を迎え、私自身も誕生日を来月に控えた、年齢的には逃れようもなく立派な大人ではあるが、話の内容は出会った頃とさほど変わりはない。
趣味の話に仕事やライフステージ、健康の話が加わった程度で、それら追加コンテンツですらも皆一様に面白おかしく話すので腹を抱えて笑うばかりだ。
素晴らしいfriendsに囲まれた楽しい人生。
ただ、ほぼ毎度腹を抱えて笑い泣きしながら一日を終えるせいか、「笑ったな〜」以外の記憶が残らない。
これは私だけではなく友人たちの多くもそうで、別れ際に「今日何喋ったっけ…?」と頭を悩ませている。
私も友人たちも写真を撮る習慣があまりないので、映像的な記録もなければ会話の記憶もないという事態がまあまあ発生する。
それは決して悪いことではない。
むしろ「なんか分からんけど楽しかった!」というのは意味を求めすぎる現代社会において良いガス抜きになっているとも言えるかも知れない。
それでも一つ気になることがある。
先日、友人たちと話している最中に私が発した言葉を覚えているのだが、どういった文脈に対しての発言だったのかが全く思い出せない。
その言葉が
「それは流石にアムネスティ・インターナショナルが黙ってないやろ」
だ。
どういう……ッ!!!!
どういう文脈で……ッ!!!!!!!
なんの話してたらこのツッコミが出るの……ッ!!!!!!!!
眉毛の中にできるニキビ、お前のことを理解したいよ。
なんかさ、10代の顔面に生まれるできものは「ニキビ」で20代以降の顔面に生まれるできものは「吹き出物」だっていうのをどっかで聞いたんだけど、ほんまけ?
10代の思春期、ホルモンバランスがまだ整わない時期にできちゃうおできは仕方ないよね、「ニキビ」だよね、みたいな慰めか?
もうすぐ30歳。
この顔の上に散らばる、文字通り親の顔より見た白赤い凸はどこからどう見てもニキビなんだが〜?
ということで便宜上、顔にできるよく見る痛い出来物をニキビと呼称する。
栄養が明らかに失調していた時期、2mm程度のニキビが顔中でコロニーを形成し、赤く腫れ上がり高級な金魚のようなツラを作り出していた。
マグマの泥沼のような職場にも居る、太陽みたいに明るいおばちゃまが「顔!どしたん!!!えらいことなってるで!!!!」と慌てるぐらいの悲惨さだった。
それも今は少しの赤みと皮の再生を残して治りつつある。
そんな、退職まで秒読みとなり、食生活も整い体調も回復しつつある今、ほぼ心身が復調してきたところに襲いかかるのは……。
季節の変わり目だ!
空気はやや乾燥しつつあるなか、強い日差しにまだ汗ばむ。
その乾湿のコンビネーション攻撃で顔がくちゃくちゃになってしまう。
パリッと、そしてジュワッと。
顔が揚げ物の擬音語で表現できる魔の季節がやってきた。
その中でも、特に私を苦しめるのが眉毛の中にできるでっけーニキビだ。
白く、大きい。
黒い眉毛の海に埋もれる白鯨のようなそれは、ほんまに痛い。
ほんまに痛いし、眉マスカラを貫通する存在感がある。
隠そうと前髪を下ろすと悪化するので日の元に晒すしかないが、羞恥を覚える程度には主張が激しくいたたまれない。
しかも眉毛の中に息を潜めているのでニキビパッチも貼れず、薬も塗れてるんだか塗れてないんだか。
眉毛に対して、唇やまぶたほどの過重労働を課した記憶はない。
なのにどうしてそんなに荒ぶるのか。
何が嫌だったのか、どうしてそんなに盛り上がるのか理由を知りたい。
眉毛を手放すことはおそらく今後ないように思うので、相互理解を進めていきたい。