お時間です

生き延びがち

大人のミニスカートを愛そうぜ

こんにちは。

ぽっぽアドベント4日目を担当させていただきます、かこQ(あるいはオザキ)と申します。

普段はツイッター(X)で映画とドラマと本と音楽とファッションにラブコールを、hellな workにブーイングを送っている、そういった人間です。

この度は素敵なイベントに参加させていただきありがとうございます!

主催者のはとさんにひとまずあったけえhugを。

 


仕事、忙し〜い。

最近は起床→出勤→就労→退勤→睡眠のルーティンに愛おしい映画鑑賞や読書を差し込むことすらおっくうになるほどで。

気力を回復させてくれるはずの趣味に割く体力がない。

こんな悲しい毎日に「NEW WORLD」なんてあったかしら…?

あったかしら…。

あったかも…?

あった…?

…あった!

 


あります!

 


大人になって履くミニスカートって自由の象徴かもね。

 

知って欲しい!「LITMUS」と「LUTENS」


好きなことの一つに着飾ることがあるんですが、基本的にオンライショッピングを嗜んでいた20代前半。

それがここ数年、店舗でお買い物をする楽しさに気づき始めました。

その個人的ブームの火付け役になったのが、大阪の南船場にある古着屋さん「MARE」と、そして今回の主題になる中崎町にあるセレクトショップ「LITMUS」と「LUTENS」。

「LITMUS」と「LUTENS」は姉妹店でありながら、取扱いアイテムの雰囲気が全く違うところがこれまた素敵なお店です。

「LITMUS」はスポーツトップスやレザーアイテムなどの多彩なセレクトのvintageと、カラーや素材、仕立てがユニークなブランドを数多く取り扱う、カラフルで自由なお洋服のおもちゃ箱。

 
 
 
 
 
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LITMUS (Open Only 3days A Week)(@litmuslitmuslitmus)がシェアした投稿

 

「LUTENS」は黒を基調としたモードでエッジの効いたアイテムを多く取り揃え、ドレスやジャケットが並んだラックに手を伸ばすだけで背筋がスッと伸びるような心地になります。

 
 
 
 
 
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LUTENS / Open Only 2days A Week(@lutens_lake_maison)がシェアした投稿

 

両極端とも言えるふたつのお店ですが、共通するのは「スタッフさんが全力でお洋服とお客さんを出会わせてくれる」というところ。

お店に入るとショップスタイリストやバイヤーのスタッフさんたちが数名いらっしゃるのですが、最初のほうはそっと奥の方に佇んでおられます。

店内をキョロキョロとしているとそのうちに、そっとそばに来て「ご試着なされますか?」等々の、人見知りには厳しい「服屋の店員さんとのトーク」のターンが始まるのですが(でもめちゃくちゃよく見てくださるので話さないタイプのお客さんのことはいい感じに見守ってくれます)、私はこのトークのターンにハマっていると言っても過言ではないかも知れません。

 

90歳になってもぶりっぶり!


最近お邪魔した時にスタイリストさんが放った最高のセンテンスです。

「LITMUS」「LUTENS」はオンラインの通販サイトを持たず、Instagramに投稿されるスタッフのみなさんのスタイリングが商品紹介になっています。

それが、ほんっと素敵なんです。

多彩なアイテムを組み合わせて作られる、スタッフさんたちのスタイリングは唯一無二で、とはいえお店の商品で再現できるため「こんな格好してみたい!」も叶えられちゃう。

しかも、スタッフさんたちが全力で「おしゃれしたい」に寄り添ってくれる、いやもう寄り添うと言うより肩組んで走ってくれるぐらいの情熱でサポートしてくれるんです。

かく言う私もミニスカート、始めました。

スカート、嫌いだったんです。

上のツイートのように「女の子だという理由で嫌々履かされた」というのが完全にトラウマになっていて。

あとまあ、小学生の時なんかスカートめくりとかさ、あったしね…。

スカート自体が嫌いというよりも、スカートにまつわる記憶にろくなもんがない。

それを覆してくれたのが、スタッフさんたちのスタイリングでした。

かわいいけどかっこいい。

かっこいいけどかわいい。

スタッフさんたちの装いは、自由で、クリエイティブで、楽しくて、かわいくて、かっこいい。

その中でもミニスカートやショートパンツのスタイリングには、今まで私の世界になかった「自由」みたいなものがありました。

自分の身体を見せる自由。

自分の身体を可愛く思う自由。

たかが脚を見せる見せないの話なんですが、なんか、めっちゃ魅了されました。

そこでひとまずスカートを履く勇気を貰おうと、お店にお邪魔してスタイリストさんに「脚、出したいなって…」と相談したところ。

「え、出してください。出しましょう。出して、出して」

oh!powerful

「ごめんなさいなんかめっちゃ変態みたいになっちゃって!でも出してください!出したとこ見たい!」

oh!terechau

でも20代後半からってなんか恥ずかしくて…。

「ぜんぜん関係ないですそんなの!私たち(スタッフさんたち)言ってるんですよ。『90歳になってもぶりっぶりでいようね』って。ぶりっぶりのおばあになろうねって」

ぶりっぶりのおばあ。

なりたい。

わたしもぶりっぶりのおばあに。

今からでも間に合う。

その日、ショートパンツとミニ丈のワンピースを買いました。

 

正直、今となっても自分の身体の全部を愛せているわけじゃありません。

胸のふくらみも邪魔だし、出したい脚だって傷だらけで太もももご立派。

でも、それがなんだの気持ちです。

身体を愛せないからと言って、着たい服を着るのを諦めるのはもったいないじゃないですか。

スカートから出た脚が太かろうが傷だらけだろうが、かわいい服着てんだからかわいいんだよ。

と思うことにしました。

自分の身体を好きになれなくても、自分で選んだかわいい服で「好きな自分」を着込んでしまう。

そういう自分の愛し方もアリってことで。

 

 

MY NEW WORLD=大人のミニスカート

 

大阪に来られた際はぜひ「LITMUS」「LUTENS」を覗いてみてはいかがでしょうか。

YOUR NEW WORLDが見つかるかも知れません。

 

\MY NEW WORLD/

f:id:honmaka_sayoka:20231203200851j:image

では、みなさまも自由なファッションライフをお過ごしください!

 

明日のご担当はななしさんです!

舞台のイラストを時折拝見してはニコ…とさせていただいております。

贔屓の俳優さんのお話、楽しみです。

 


※「LITMUS」「LUTENS」ともに予約必須なappointment dayと誰でも入店できるappointment free dayがあります。

「LITMUS」は月、金、土の15時〜19時がfree、「LUTENS」は月、土の15時〜19時がfree。

※名古屋にも姉妹店「LITMUS MAISON NAGOYA」があります。お近くの方はぜひ!

※店舗に行けなくても、スタイリストさんやバイヤーさんたちのInstagramのアカウントにメッセージを送れば通販やスタイリングの相談ができます。

SHOHOKU BY THE SEA〜宮城カオルを愛する〜

映画館でTHE FIRST SLAM DUNKを観るたび、スクリーンに映し出される手に汗握るゲームに、ゲームによって浮かび上がるキャラクターたちの細やかな人間性に、途方もなく魅了される。


なのに、なんでかな。

帰りの電車でひたすらスマホに打ち込むのは、ひとりの女性について。


夫であり、子どもたちの父親。そして息子が事故で他界。家族を喪った痛みと恐怖、それでも生きていかなければならない命の重みを抱えて何度も現れる、そんな彼女のことを想わずにはいられない。

映画の主人公である宮城リョータの母親、宮城カオル。

私はこの作品の中で、彼女のことを深く深く、愛している。

少し長くなるけれども、この半年ほどの、Twitterに上げたカオルさんに関わる文章を再掲する。

 

 

 

Twitterログ

2023.1.2

「親」は「親」という生き物ではなく「親」という責任を負ったひとりの人間である、という描写をされると無条件降伏するからTHE  FIRST SLAM  DUNKもこんなに好きなんだろうな。

宮城リョータが主人公だけど、確実に宮城カオルの物語でもある。

耐えがたい喪失を抱えていても「親」という重たい責任を投げ出すことはできず、同時に「子」はその親の苦しみの側で生き続けなければならない。

「家族」というジェンガはあまりに不安定で、思いもよらないピースの欠けで容易く崩れ落ちる。

ただ、崩れた山でもまだピースは重なり合ってる。

家族は祝いと呪いの両義性を必ず持っていて、個人の集合体でありながら他に類を見ない拘束力を持つ。

だからこそ古今東西、「家族」「ファミリー」という概念には憧憬と忌避の視線が注がれ続けているんだろうね。ヤクザやマフィアがその代表かな。

映画の中の「欠けた家族」の表象。

マンチェスター・バイ・ザ・シー』では、自らの過失で子どもを亡くした過去ばかりを見つめ続けて自己憐憫と自己嫌悪の中で立ちすくむ父親。

『スリービルボード』では娘を暴力で奪われたことを過去にしないため、一心不乱に犯人を探し続ける母親。

『THE FIRST SLAM DUNK』では親を、子を、兄を喪い、いびつになった家族がいびつなまま今を生きる姿。

 

宮城カオルが俗に言う「毒親」に見えるなら、もしかしたらそれはその人が今まで、少なくとも家族関係において幸福であったということなのかもしれない。

親に "適切に"愛されることを享受してきたがゆえに、彼女が「親失格」に思えてしまう。

…ということもあるのかもしれない。

 

2023.1.5

宮城家、苗字から察するに本土からの移住じゃなくて琉球の人なんだろうなとか考えるの楽しいけど、どうしても島を離れて移住した先でも砂浜で膝を抱えながら海岸線を見つめ続けるカオルさんを後ろから抱きしめて目元を手でそっと覆いたくなる。


2023.1.8

「あなたは悪くない。運が悪かっただけ」と放逐されてされてしまうと、罪の意識は行き場所を失ったまま文字通り永遠に心を蝕む。

往々にして人は罰されることで自分を赦し得るから…これもTHE FIRST SLAM DUNKの感想です…


2023.1.11

カオルさんがソータのことを考えるとき、必ず海を見るのが苦しいね…海は育む場所でありながらも奪う場所でもある。

命そのものみたいな場所。


2023.1.21

ここ数年は「大人と子ども」の線引きが上手い映画を好んでたけど、それすらも飲み込むような「大人でいることができないほどの苦しみ」を掬い上げる物語が刺さるようになってきており…

『罪の声』も、当時は何も知らない子どもに背負わせた罪の重さを考えてたけど、今は「親でいられないほどの憎しみ」を捨てるこの出来ない苦痛を思ってしまう。フーシー(羅小黒戦記)の憎しみも、宮城カオルの痛みも…


2023.3.17

EEAAO(エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス)の後のTHE FIRST SLAM DUNK、味が濃くなっててウケる(泣く)

ロッカーの「…行ってくる」のシーンで突然「割れたマグカップの破片をかき集めても二度と同じ形にはならないように、壊れた家族もかつてと同じ姿にならない。だとしてとしてもいびつなまま、ひび割れを紡ぎあって、水をこぼしながらでも一緒に歩める」と思い至って号泣してしまい…

「混乱している時ほど優しくならないと」を十数歳にして自然と実践してる宮城アンナに一生こころの柔らかいところを握ってて欲しい

家族を大事にしたいのに上手にそれができない人たちをcure(治療)するのではなくsave(救う・掬い上げる)する物語たちに助けられてる…


2023.3.29

カオルさんがあの状況で住み慣れた沖縄を去ることを選んだの、自分がつらかったのも多分にあるだろうけど、子どもたちが「遺族」として見られることとか、それこそリョータがソータと比べられたりすることを避けたかったのかもしれないな…と思うとカオルさん、深まる…感謝が……

沖縄に住み続けてたらいろいろ気を遣ってもらえたろうけど、「海の事故で夫/父と息子/兄を亡くした」の枕詞が永遠に付きまとうことになってたろうな…


2023.3.30

フェンスの向こうから呼ばれて帰って来なかったソータ。フェンスの向こうから呼ばれて一度姿を消すも「諦めが悪いんだよ」と戻ってきた三井寿。いつしか張ってしまっていたフェンスの向こうで戦う息子に手を伸ばすカオル。フェンスで分けられた彼我を彷徨う者たち。いい映画だな…THE FIRST SLAM DUNK


2023.4.6

だんだんTHE FIRST SLAM DUNKのことを思い出すこと=カオルさんを想うことになりつつある…

子どもたちや自分の心を取りこぼしていることに気づきながらも必死で生きてきたカオルさんに、リョータが渡したことばが「生きててごめん」じゃなくて「バスケやらせてくれてありがとう」で本当に良かった…

リョータとアンナを女手一つで食わせていく親としての責任と、二人の子らを大事にしたい、愛したいという気持ちと裏腹に悲しみが終わらなくて上手にそれが出来ない、宮城カオルという女性の一生を想う…

リョータの自損事故なんて、身内からしたら一発で自傷行為だって分かるじゃん…それをしてしまうリョータの幼さと痛み、兄の自傷を見逃してやれてしまうアンナの不必要なほどの大人びた振る舞い、息子と一緒に悲しんでやれなかったカオルさんの苦しみ…宮城家…


2023.4.29

あ〜〜〜…宮城カオルさん、劇中では一度も涙を見せてないんだ…リョータの病室の前では唇を振るわせるだけ、リョータの手紙を読んでる時も俯いて肩を振るわせて、人前(観客の前)で涙を見せるのは唯一リョータの心象風景の中だけ…

リョータの腕の中でだけ涙を流すカオルさんは、リョータ自身が「恨んでなんかいない。苦しんできた母に、もう堪えずに涙を流して欲しい」という願いの化身だと思うので、リョータの血肉を削り渡すような優しさと愛に俺が泣かせてもらう…

そして心象風景の中ではあれど、自分を許し愛でもって抱きしめてくれた息子を悲しいはずの海辺で抱きしめようとするカオルさん…(恥ずかしくて揺さぶるに止まったけど)

罪はなくとも赦しの物語なんだなTHE FIRST SLAM DUNK


2023.5.2

カオルさんねえ、ミニバスのシーンでも地元のおばちゃんらによくきたねえて労われた時のお愛想の笑顔以外笑っとらんのよな…リョータがゴール決めても虚な顔でソータの影を追ってる…アンナの「リョーちゃんがんばれ!」との対比がつらい

カオルさん自身が「もうこれ以上に頑張りようのないひと」なのでリョータに「がんばれ」と言えるわけもなく。

だからこそ17歳になったリョータからの「バスケは嫌だったよね」「それでもやめろと言わないでくれてありがとう」は、「がんばれ」を言えなくなったカオルさんにとって赦しだったろうな…

アヤちゃんのセリフに乗せられたカオルさんの「行け!リョータ!」は8年間ずっと言ってあげられなかったすべてなんだろうな。

ちゃんとあなたを愛したいよ、大切にしたいよ、だから「行け」…

喪ったことを抱えたままでも、また喪うことを怖がりながらでも、それでも「行け」と言えることは強さだよ…

 

 

ーーーーー

以上ログでした。

 

 

雑感

「生きているのが俺ですみません」

17歳の少年に、子どもに、そんなことを書かせてしまうなんて非道い親だ。

そう断じることは、もちろんできる。


「8年、経つんだね」

息子の誕生日を、亡くした長男の命日から数えてしまう、非道い親だ。

そう判じることも、もちろんできる。


それでも、息子が母に送ることを選んだことばは、「ありがとう」だった。

バスケだけが生きる支えだったと、言外に「生きているのが辛かった」と告白しながら、それでも「バスケを続けさせてくれてありがとう」と。


俺が生きることを支えてくれたのは、あなただよ、と。

 


罪はない。宮城カオルにも、リョータにも。

それでも、「ありがとう」ということばは、"赦し"だった。

リョータ自身にとっては「生きていくこと」への。

そして、宮城カオルにとっては「上手く愛せなかったこと」への。

本来ならば誰も、自分自身ですらも許すことのできない、孤独な「罪悪感」を、赦す。

 


これは、超越した"赦し"の物語。

 


監督・原作者曰く、タイトルの「FIRST」には、宮城リョータの第一歩という意味も込められている。

 


その一歩がこんなにも繊細で、やわく、そして優しいものだったことが、どうしても愛おしい。

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム〜映画館で過呼吸になる人生ウケんね〜

あらすじ

あらすじ終わり。

 

 

2021年〜2022年の年末年始を全て仕事に捧げたのに蝕が起きることもなく、私がフェムトになって新生鷹の団も結成することもなく。

当たり前に2月が来ちゃってようやくNWHを観れました。

個人的にスパイダーマンシリーズ(アメスパ)とはいろいろありすぎるので(後述)、予告も前情報も可能な限りシャットアウトして観た。

感情全部出た。

嗚咽で息が出来んかった。

ちょっと過呼吸なった。

胃が痙攣して出た小ゲロは飲み込んだ。

これは、トラウマのように心にブッ刺さってる作品が時空を超えて抜けて、そこから温かい涙が出た人間の記録である。

 


アメイジングスパイダーマンを許さなかった世界を許せなかった8年間。

 


初代実写スパイダーマンの始まりは20年前。

20代半ばの自分なのでさすがにリアタイファンです!と言えるほどの自信はなく、さりとて履修済みなので愛着はある。

この初代サム・ライミ版、もしくはトビー・マグワイアスパイダーマンが実写スパイダーマンの元祖であり、確かな支持を得ていることも認識している。

しかし、私が墓守りの如く未だにウロウロ徘徊していたのは2012年、2014年に公開された2代目スパイダーマン

その名も『アメイジングスパイダーマン』だ。

観る前は「ダセ〜名前!」と思っていた。

観た後は「アメイジング…」だった。

監督は、『(500)日のサマー』で観客を感情のサラダボウルに放り込んで困惑ドレッシングで和えたことで評価された(?)マーク・ウェブ。

♡ハッピーでキュートなラブストーリー♡という幻想<ファンタジー>を「ニンゲン」の生臭さで繊細に包んで供したそのワザマエは、ヒーロー映画でも遺憾無く発揮されていた。

アメイジングスパイダーマン』は主人公ピーター・パーカーとグウェン・ステイシーの軽妙でロマンティック、時にシビアなラブストーリーと、スパイダーマンを含めた「ニンゲン」たちのままならなさが複雑に絡み合ったヒューマンドラマであった。

スーパーヒーロー映画でありながら、「救う」ヒロイズムよりも「救えない」ヒューマニズムにスポットライトが当たる、現在のMCUに至る布石のような作品なのだ。(大オタクの贔屓目もある)

思い返すに、初代スパイダーマンにも明確な敵対者はそもそも居らず、ピーター・パーカーにまつわる人物が抗えない状況によってスパイダーマンと敵対してしまう物語だった。

ノーマン・オズボーン(グリーン・ゴブリン)然り、ドクター・オクタヴィアス(ドック・オク)然り。

フリント・マルコ(サンドマン)は、悲しいね…。

アメイジングスパイダーマン』は初代が確立した、「ヒトとヒトが関わることで生まれる予想もつかない哀しみ」を顕微鏡で拡大してスクリーンに流した、ある種ミニマムな出来事の集合体なのだ。

だからこそ、一つ一つの出来事がまばゆく、そしてそれらの結果があまりにもピーター・パーカーにとって厳しいものだった。アンドリュー・ガーフィールド演じるピーター・パーカーの等身大の悲しみが、等身大の私を捕え、そしてそのまま放り出された。

なぜか。

アメイジングスパイダーマン』は、ピーター・パーカーの物語を救うことなく幕を閉じたからである。

…続編、打ち切りだっちゃ。

 


…以降、私はSONYを許していない。(何でかは調べてみてね)

 

 

 

ノー・ウェイ・ホームで救われる『アメイジングスパイダーマン』オタク

 


最初に書いた通り、私はNWHの事前情報をシャットアウトしていた。

MCUは好き嫌い怒りいろいろあるけどずっと観てきたし、なんか腐れ縁みたいな感じになってきてるし、トムホスパイダーマンも楽しく観ていた。

トムホスパイダーマンがめちゃくちゃ文字通り子どもなのにバカスカ戦わされるのは割と真剣におこだが、それはそれとして純粋に面白かった。

あと、敵にスパイダーマンに対して明確な敵意があるのが前二作品とは趣きが違うわね、と今さらMCUナイズドされてたことにも気付いた。

そしてシリーズ3作目、NWH。

み、みんな(旧作の敵たち)だ〜〜〜!!!!!!!

元気そうじゃん!!!!!!

嬉しい!!!!!!!!!!!!

ドック・オク変わんないね!!!!!!

デフォーの顔芸やっぱ勢いあんね!!!!

…アメスパのふたりもご健勝そうで…。

で、じゃん。

でじゃん。

最悪の状態に陥ったピーター。

そこに、ア〜〜〜〜〜〜〜〜。

ア"〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

アンドリュー・アメイジングガーフィールドスパイダーマン

が、現れた。

8年間も顔見せないでどうしてたの。

あの後どうなったの。

つらかったでしょう。

寂しかったでしょう。

ちゃんとご飯食べてた?

ちゃんと寝れてた?

ハリーとは和解した?

もう、8年間溜めてた感情が一気に溢れて、小ゲロを吐きながら泣いた。

そのあとに、正しくあろうとしながらも暴力に溺れた日々を語ったアメイジングな彼の涙に泣いた。

過去にできなかったことができた優しいピーター・パーカーの涙に泣いた。

彼が果たせなかったことをさせてくれたNWHに、私たちが見れなかった彼のその後を教えてくれたNWHに感謝しながら泣いた。

頭を抱えて泣いた。

三人のスパイダーマンヴィランズをcureする姿に、私の8年間もcureされた。

トムホスパイディが繰り返し発していた「fix(修理)」ではなく、トビースパイディが言うようなまさしく「cure(癒し)」の作品となったのだ。

※NWHで描かれた「cure」はマイノリティを「治療する」ような意味合いでのそれでなく(X-MEN:ファイナル・ディシジョン参照)、ヴィランズがそうなってしまった不運や社会的病理を彼らから取り除くという作業だった。アンドリュースパイディがマックス・ディロン(エレクトロ)に「君はもともと素敵だった」と手を差し伸べる、そういう、スパイダーマンの「親愛なる隣人」としての救い。ありがとう。

 


NWHはヴィランズをcureすることで過去二作品のスパイダーマンたちの願いも救い、過去作の周りをうろつく亡霊のようなオタクも救った。

スパイダーマン(とそのオタク)を救えるのもまたスパイダーマンなのだ。

「その点でもスパイダーバース 、凄いよね。」

あ、スパイダーバース 凄いよねオタクだ!


あとは先達たちが背負い、今作で救われたはずの「スパイダーマンとしての孤独」にがっつり捕まってしまったトムホスパイディが救われるだけだね。

 


おい!トムホスパイディの世界!下リンクを読んでおいてね!!!!!

同じように違うのだ〜クィアが観た『vitalsigns』〜

救難艇「水伯」は、海の底で助けを待つ調査艇「バラエナ」の乗組員を救助するため深海を進む。

海の仲間を救うために。

深海840mからもたらされた『助けて』を掬うために。

 


同じように違うのだ

 


しかし、水伯がバラエナから救い上げたのは"ヒト"ではないものたちだった。

 

 

パラドックス定数47項

『vitalsigns』

作・演出:野木萌葱


出演

◯救難艇「水伯」

葉山達平:西原誠吾

六浦剛介:神農直隆

◯調査艇「バラエナ」

汐入知也:植村宏司

鳥浜明彦:小野ゆたか

堀ノ内正:堀靖明

 

 

 

2021年12月17日(金)19時、公演初回。

低い位置にある舞台を少し見下ろすような席、中央あたりで観劇。

照明が落とされると、地下にある小さな劇場は深海を進む小さな潜水艇に変わる。

ものの一瞬で物語の世界に引き込まれる、見事な開幕。

その小さな舞台では、二人の、時には三人、そして五人の会話劇が繰り広げられる。

 


深海を征く救難艇「水伯」の艇長葉山と操縦士の六浦が海底に留まった調査艇「バラエナ」から救助した三人の乗組員の様子がおかしい。

いやに落ち着いている。

そして同時に、酷く怯えていた。

彼らが言うには、自分たちは「ヒトではない」。

海の底で突如自我を持ち、かつてヒトだった乗組員たちを乗っ取ったなんらかの"意識"。

直径3mの円形の船室の中でヒトと、ヒトではないものの、存在を賭した対話が始まった。

 


艇長である葉山は分かりやすくオールドな価値観を内包している。

部下である六浦への口調、感情のままに荒げられる声。

しかし同時に、当たり前のように六浦を大切に思い、感情のままに悩む。

この劇の中で、とくべつに等身大の、マジョリティの人間として造形されているように感じられた。

一方で操縦士の六浦は、葉山を信頼しながらも茶目っ気のある柔軟な人物。

彼は己が「ヒトではなくなった」事実を柔軟に受け入れ、そして柔軟に怯えを見せる。

常に狭間をゆく六浦の揺らぎにつられるように、頑なだった葉山はやがて「ヒトではないもの」たちを知り始める。

「ヒトではないもの」たちがヒトではないことを。

「ヒトではないもの」たちがヒトと変わらぬ心を持つことを。

そしてやはり、彼らが「ヒトではないもの」であることを。

 


葉山が「こいつらヒトじゃん」と絞り出すように叫んだ瞬間、私は身体中の血が引くような感覚を味わった。

おかしなヒト、違法な手段で入国しようとするヒト、ヒト、ヒト。

葉山は汐入たちを理解できないがゆえに、あくまで「ヒト」の異種だと扱い続けた。

この物語が明確にマジョリティとマイノリティの歪な構造を描く限り、葉山の「こいつらヒトじゃん」ということばは、マイノリティである汐入たちから、彼らのアイデンティティを奪い均してしまう恐ろしさをはらむ。

「ヒトではない」と主張するいきものに、己の勝手な物差しを当てがって「ヒト」とする。

理解の範疇にないから、無理やり相手の形を歪めて型に押し込める。

堀ノ内は序盤でキッパリと「在り方を決めつけられることに強い不快感を感じる」と断じた。

それでも、オールドな価値観をどうにか広げたあとでさえ、葉山は彼らに同質性を求めてしまった。

彼らに自分と同じ、正しくは"マジョリティと同じ"性質があることでようやく彼らを受け入れられたのだ。

 

私はクィアな物語を表する際に使われる「普遍」ということばがとても嫌いだ。

陳腐である以上に、クィアネスを杭打ち目を背ける残酷な逃げ口上だからだ。

 


「ゲイ映画だけど普通に観れる」

「百合(レズビアン)は至高」

 


マジョリティと同じような感覚、感情が伝わらなければ、「普遍」でなければ受け入れられない。

マジョリティが憧れるような、特殊で特別な関係性がなければ価値を見出せない。

 


葉山の「こいつらヒトじゃん」には、そういったもののエッセンスが詰まっていて、私の中にある「違い」が締め付けられるようだった。

しかし、葉山はこう続けた。

「でも違うよな。ヒトだけどヒトじゃないよな」

 

 

他者が自分とは違う/同じということを受け入れる、認める、という権利は誰にもない。

同時に、自分が他者とは違う/同じということを証明する義務もない。

葉山はヒトではない汐入たち、ヒトではなくなっていく六浦との会話の中で、彼らを「受け入れる」でも「証明する」でもなく、彼らが違うということをただ「知る」。

ヒトとヒトの間に必要なものは、許容でも証明でもない。

「違う/同じ」だということをただ、知るだけ。

誰もが知れば、「違う」ヒトビトが現状さまざまな権利を奪われている異様さ、「違う」ヒトビトが受ける暴力の凄惨さに気付く筈だ。

 


葉山は優しかった。

優しいがために、マジョリティの残酷から少しでも汐入たちを遠ざけられるように手袋を渡した。

まるで優しい小さなクローゼットだと思った。

葉山は優しいから、彼らを隠したかったのだ。

彼らを自分なりに守りたかったのだ。

やがて「違い」が明らかになるであろう六浦と自分を含めて。

しかし、私たちは水伯の中で生きられはしない。

葉山の優しさは、舞台の外の私たちを守らない。

だからこそ外に出てこう叫び続けるのだ。

聞こえるように、見えるように、知られるように。

 

あなたは私と違う。

同じように、私はあなたとは違う。

 

 

 

 

 

またパラ定の舞台を観られますようにっ!

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「育てる」って、素敵すぎて生き延びちゃう

「私の望みの歓びよ」

おはようございます。

こんにちは。

こんばんは。

おやすみなさい。

オザキです。

ぽっぽアドベント2021の17日を担当させていただきます。

今年もありがとうございます、はとさん!

このエントリも、少しでもはとさんの歓びになれたらな…。

 


ということで、「私の望みの歓びよ」。

 


甥。

甥、ですねえ…。

前回のぽっぽアドベントから1年経ったということは、つまり甥っ子さんも1歳になったということで、その日々は途切れることなく私に歓びをもたらすものでした。

布団の上でねうねう泣くだけだったいきものが、今や私の口の中に手を突っ込み舌の上に苦甘塩っぱい後味を残し、かと思えば抱き上げようとした私の腕を「や!」と振り払う。

ただただ生命だったものが、さらに素晴らしくて、愛おしくて、やっかいで、かけがえのない何かになりつつあるようです。

その何かとは、おそらく「人間」だろうと思います。

赤ちゃんだって、「人間」なんだぜ。

当たり前だけど、意外と忘れがちだからメンションな。

 


すくすく育つ甥は歓びである。

とはいえ甥は甥で育つので。

私は何を育てましょう。

 

 

 

「育てる」って、素敵すぎて生き延びちゃう

 


ツイッターのフォロワーさんはご存知かもしれませんが、私は謎の労働環境にあり(職場は心地よいです)、いつも、いついつまでも働いている状態にあります。

その隙間で映画を観たりサブスクを細々と消化したり本を読んだりしてるんですが、この半年ぐらいで急に私のツイートに登場するようになったものがあります。

ハイブランド品。

グッチ、ディオール、タサキ、ジルサンダー、マルジェラ、アレキサンダーマックイーン、他。

新品もあればused品もあるこれらは、ほとんどこの下半期に私の元にやってきました。

この勢い、まず心配になるのが「買い物依存症」ですね。

身内からも厳重注意をされています。

ほんと、気をつけます。

ほんとほんとマジマジ…。

ただ、今回ここに書きたいのは「ハイブランド品を買う歓び」ではないんです。

「ものを育てる歓び」です。

 


「育てる」

一昨年ごろから友だちに誘われて時々キャンドル作りの教室に通っています。

先生がみずから拓いた森で採集した草花や、みずみずしさが閉じ込められた果実のスライスをキャンドルに閉じ込めていく作業は、まさしく没頭の時間です。

そこで繰り返し先生がおっしゃる言葉が、「育てる」。

キャンドルに火を灯して溶かしていくこと。

それを先生は「育てる」と表現します。

火を灯すたびに蝋は減っていく。

キャンドルは確実になくなっていく。

それを「素敵に育てていきましょうね」と。

先生にとって蝋がなくなっていくことは、何かが失われることではなく、別の形に変化して行くことで、つまり「育っていく」ことのようです。

例えば、火の調節を失敗してキャンドルの外側に穴を空けてしまい蝋が溶け出してしまっても、「オザキさんのキャンドルは元気いっぱいだね」と笑ってくれます。

キャンドルに穴が開くことも、蝋が漏れ出すことも、失敗ではなく「育つ」過程。

休日に手ずから森を拓いている先生は、その森も「育てて」いるのだと思います。

 


先生のそのことばと同じ思いを感じられるコンセプトのブランドに今秋出会いました。

YUKI FUJISAWAさんです。

不揃いの真珠を美しく加工してジュエリーにしたり、古いトートバッグに金や銀の箔を押して新しく生まれ変わらせたり。

見過ごされてしまいそうな、見捨てられてしまいそうなものの意味、存在を、もう一度大切に掬い上げる。

そして同時に、商品のオーダーリペアやお直しを行なっています。

「『時とともに変わっていくこと』を受け入れ愛してアイテムを"育てていく"」

育てていく…。

アイテムに傷やほころびが出来たことは、ダメージなのかもしれない。

それでも、その傷やほころびは一概に悪いものではなくて、それが私の日々にちゃんと在ったからこそできた、唯一無二の変化。

もし耐えられないほどの傷であっても、捨ててしまうのではなく、傷ついた部分を見つめなおしてお直しする。

…まるでセルフケアじゃん。

こんなんめっちゃラブじゃん。

ものを持って、ものを使って、ものが変わっていくことが、ものを「育てる」ことだとしたら。

子どもを産んだりはしないかもしれないけれど、何をも育てることができちゃうじゃん。

ものを大事にすることで自分を大事にできちゃうじゃん。

じゃあ、長く使えるものがいいな。

長く使って、長く育てていきたいな。

 


初めてグッチでかばんを購入したとき、店員さんが「長く使えるので、たくさん使ってくださいね!」って。

 


私のもとにあるものたちへ。

一緒に傷ついたり凹んだり、シワができたりしながら育っていこ〜ね!

 

これを読んでくれている人たちへ。

一緒に傷ついたり凹んだり、シワができたりしながら育っていこ〜ね!

 

YUKI FUJISAWAYUKI FUJISAWA online store

 

 

 

明日18日はokiさんです。

パラコズムってなんだろ…。

okiさんのアドベントはもうすぐ開きます💙

 

チェリまほ、2020を繋ぎ止めてくれてマジ感謝

2020、今年中に伝えたかったので突貫工事、アクセルベタ踏み文章で行かせていただきます。

 


『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』

豊田悠原作漫画、通称「チェリまほ」の実写ドラマが10月から始まりました。

BL漫画の実写化です。

そう、BLです。

ボーイズラブです。

深夜枠です。

木曜25時からでした。

放送終了後の今、一つだけ願いがあるとするならば、ゴールデンタイムに来て欲しかった。

きみ(チェリまほ)は真夜中に、ひっそりと放送されるような器じゃなかった。

素晴らしいドラマだった。

当たり前のように家族で観て感想を言い合う、どうかそんな日が来て欲しいと願わずにはいられない、そんなドラマだった。

たった30分、12話。

時間にして6時間弱。

その短い時間の中で、私が、そして私だけじゃない多くの人が、たくさんの贈り物を受け取ったと思う。

題材はボーイズラブ、つまり同性愛。

およびアセクシャル、アロマンス。

恋情、愛情、欲情、友情。

エトセトラ。

今まで「禁断の」だの「普遍の」だの、手垢のついた惹句でおもちゃにされたり塗りつぶされたりしてきたかけがえのない感情、生き方、セクシャリティを、くすんだオブラートで包まずにフレッシュにお届けしてくれた。

ありがとう電波!

届いたよ、物語!

 


めちゃくちゃ抽象的に書き始めちゃったんですが、大きく言えば本当に「感謝」。

私はBLを長年愛していますが、その一方でBL界隈に漂う「隠すべきもの」「恥ずかしいもの」という無言の規範に苦痛も感じてた。

昔は私自身「ふじょし」であることを家族に隠して、目の届かないところで楽しむのが正しい「ふじょし」と「BL」の関係性だと思ってた。

でもさ、ここ数年でようやく気付いた。

よく「BLはファンタジー」なんて言うけど、ボーイズのラブはファンタジーなんかじゃねえんじゃねえか?

ボーイズは事実、ボーイ&ガールのようにラブし合ってて、生きてんじゃんか。

「ファンタジー」なんかじゃないじゃん。

少女漫画はどこでも読めるのに、ボーイズラブは隠れなきゃならないなんて変ですわ。

20歳頃の気付き。遅くてすまない。

(まあBL漫画に性描写が多いのは事実で、そこはゾーニングが必須だとは思う。ただ、コンビニのオープンスペースからエロ本が消えるのも一緒にな)

それ以降、「BLは隠れよう」みたいなのに違和感を覚えて過ごしてきました。

しかし、「ボーイズラブが売れる」となってくると今度は「禁断の」から「普遍の」に流れが変わった。

確かに愛は普遍よ?

でも今まで散々、愚かな私を含めて散々ボーイズラブを「異質なもの」として扱ってきたのに、今度は「普遍」というラベルを貼るんか。

同性婚もろくすっぽ前進しないこの国で、環境で、口先だけの「普遍」。

「みんな(みんなって誰?)に理解してもらえるような『普遍性』」が欲しかったわけじゃないじゃんか。

話は逸れるけど、選択的夫婦別姓の否決も「理解が得られない」だったよね。

つまり「普遍」ってことばも「理解が得られないモノ(BL)」を受け入れてもらえるようにするためのシラけたラベリングな訳ですよ。

要らね〜そんなもん。

私の個人的な信条で「理解より先に制度」があるんですが、なんでエブリワンの許可がないと「普通」を手に入れられないんですか?って。

「普遍」を押し付けといて「普通」は与えない。

残酷すぎるやろがい。

 


なあ、チェリまほ。

きみは「普遍」なんかじゃなかったよな。

人と人の心が繋がる瞬間をたくさん切り取ったヒューマンドラマで、でも間違いなくボーイズラブで、ゲイロマンスだったよな。

作中での「男同士だから(良くない)」という描写はおそらく2回。

安達が黒沢の想いを受け止める時の「俺たち男だし(大変だと思う)」。

六角が柘植にキレた「湊を避けてるのはゲイだからですか!!!」。

決して「男同士」ということを「負の要素」として描かない、でも(キツい)現状に即した現実的な会話になる。

これが凄かった。

このバランスが。

ボーイズラブを「禁断」にもせず、ましてや「普遍」にもしない、絶妙な現実とロマンスのバランス。

主人公の安達は「男だから」ではなく「自分に自信がないから」同性の黒沢と恋を進められない。

でも六角は柘植に「ゲイだから避けるなんて最低だ」と言い切る。

ちゃんと、描いてるんだよな。

個人的な繋がりと、社会的な分断を。

そして、チェリまほが描くボーイズラブ、ゲイロマンスと同じくらい感謝してるのは、恋愛以外の愛もちゃんと「愛」カウントしてるところで。

藤崎さんよ…。

大好きだよ…。

藤崎さんが「恋愛に興味がない人」として描かれた回、私はゲロゲロに泣きました。

最終回で六角と"恋に目覚める"なんてこともなく。

ありがたかった。

なぜなら私も「そう」だから。

また個人的な話なんですが、現時点での私の性的指向アセクシャル、およびアロマンス。

同性異性に恋愛感情を抱かない。

それがね〜、生きづらい。

こっちで文句タラタラ書いてます。


何より「絶対許さん異性愛規範(怒怒怒)」となったのは、私の非常に素晴らしい友が「誰にも恋できない自分は何かが欠如してるのかなと思うことがある」と言ったこと。

というか、言わされたこと。

恋しなきゃ、パートナーがいなきゃおかしいか?

欠落してるか?異常か?努力が足りんのか?ああ???

そんな怒りと所在感の無さに、「まあここにいなよ」と着地点をくれたのは「アセクシャル」や「アロマンス」といったラベルだった。

直近で読んだチェリまほのインタビューで「ラベリングの暴力性」が俎上に上がってたけど、生まれた瞬間、既に私たちはその暴力にあってるんですよ。

「女の子/男の子」の「異性愛者」だとラベルをベタっと貼られてるんです。

なら、違うと感じたら剥がしていいでしょう。

別のを貼ってもいいでしょう。

「いつか異性を好きになるかもしれない」

「いつか恋するかもしれない」

確かにね。

でも他人のラベル、勝手に剥がすんじゃないよ。

自分で貼ったラベルぐらい、貼ったままでいさせて頂戴ね。

 


でも、藤崎さんも恋愛はしなかったけど、十分以上に人を愛する人だった。

安達と黒沢を心から応援して、「お節介でごめんね」なんて言いながら優しさを何度も差し出してた。

柘植の「親友のピンチに駆けつけないほど腑抜けてない」も堪らなかった。

六角も、友だち(湊)のために歳上に本気で怒ってた。

これ全部、「愛情」なんだよ。

チェリまほは安達と黒沢のラブストーリーではあるんだけど、恋愛をそれ以外の「情」の上に置かなかった。

恋愛じゃなくても、どんな形でも人は人を愛する。

その姿は愛おしくて、暖かくて、何物にも変えられない。

それを描いてくれて、心より感謝御礼奉ります。

 


そろそろ2020年が終わるので乱文になりましたがここら辺で一旦終えさせていただきます。

 


チェリまほ、ありがとう。

たくさんの生き方があるって、ちゃんと見てくれてるんだって、そう思えるだけで救いになるんだよ。

川の流れとそれを阻む化石について

「オザキさんの彼氏はいつできんの?」

 


知らんがな!!!!!

人体錬成みたいに言うな!!!!!

私は「彼氏の錬金術師」か?!?!

君のっ手でーーーーっ?!?!切り裂ーーーーーーーく前にこの手で裂いたろか!?!??

 

 


冒頭からキレながらお送りします、本日12月15日(火)のアドベント

昨年に引き続き、主催のmy dearest はとさんにお招きいただき参加いたします。

 

去年は「私が動かされたもの」というテーマでハイアンドローザワースト、通称「ザワ」と、なぜか全く関係のない洋画2本にまつわる私の"移動"についてのエントリを寄稿させていただきました。


今年のテーマは「変わった/変わらなかったこと」。

たぶん今年はいろんなことが変わってしまったんだろうな。

この間乗ったタクシーの運転手さんも

「私元々は鉄板焼き屋やってたんですよ。でもコロナでね…。知人の紹介でタクシーやってます」

とおっしゃってました。

大きく人生が変わった人、たくさんいる。

それが良い方向であればと思うけど、難しい状況です。

 

大きく変わったといえば、私の生活も結構変わりました。

身内がひとり減って、ひとり増えました。

ひとり減った話はこちら

で書いているんですが、ひとり増えた話は、もう、たまんないです。

 

私、叔母になりました!

(全人類の祝福の口笛)(火星人の鼓膜が破れる)

毎日帰宅したら生まれて10日とかの人間がいる。

手を洗い、服を脱ぎ捨て、除菌し、吸う。

赤子を、吸う。

いい匂いなんです。

嗅いだことのないあまいにおい。

最近ハマってるアロマキャンドルに負けない香り。

赤ちゃんの香りのキャンドルが発売されたら需要あると思うし数年後には泣いちゃう。

 

「赤ちゃんは毎日別の生き物になる」

っていうぐらい、乳児〜新生児は本当に毎秒・毎分・毎時・毎日変わっていくそうで。

昨日のベビーと今日のベビーの匂いは違うし、多分明日のベビーの匂いも違う。

数年後にはもうあまいにおいはしなくなる。

でも数年後には今とは全然別の、大きくなったお子がいる。

楽しみでたまらないです。

子どもの成長は愛そのものだと思います。

 

生まれてきてくれてありがとねベビー。

産んでくれてありがとねシスター。

 

私のメンタルキャリブレーションの一つ、『ミッドナイト・ゴスペル』では

「生も死も状態変化のひとつ」

という思想が出てきます。

ひとは生まれたり死んだりする。

それも「変化」のひとつ。

嬉しくも悲しくもある、大きな「変化」が私個人の周りでたくさんありました。

 


しかし、今回の本題はミニマム。

冒頭のキレに戻ります。

 

 

川の流れ私vs化石おじさん

まあ会社のあれこれでお話しすることの多い壮年の男性がいるんですが。

毎回の話題は「オザキさんには彼氏が必要だ」というもの。


「もう20代も半ばで彼氏がいないなんて勿体ない」

(何が?)

「30歳を超えたらもう女としては下がるしかないよ」

(Hey DJ!気分上場⤴︎⤴︎の気しかしねえんだが?)

「誰でもいいから付き合ってみたら?」

(路上殺人の供述でよくあるやつか?)


典型的な異性愛規範に則ったおせっかいですね。

これが最も楽しい話題だと思ってるのか、話題の引き出しの中身がただ乏しいだけなのかは正直もうどうでもよいのですが。

 


私の現状の性的指向は「アセクシャル」です。

でも男女問わず、恋心のようなものを抱く瞬間もないではないので「バイセクシャルノンセクシャル」という可能性もあります。

同時に、自分から好意を抱くことはできても他者から「そういう相手」だと思われるのは嫌悪感があります。

同期(男性)とはひっくり返って笑い合うぐらいには仲がいいですが、上司に

「同期君はオザキさんに気があるんちゃう〜ん?」

と茶化された時はうっかり素で

「死にたくなりますね〜」

と答えていて自分でもびっくりしました。

あと、その茶化しは全く面白くないし同期にも失礼。

シンプルにセクハラだしな。


まとめると、「ジェンダーフルイド」と呼称される、性自認が流動的な人がいるように、私の性的指向も毎日川の流れのように変化するようです。


最近なんかは特に「30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい(通称「チェリまほ」)」のおかげで「恋っていいなあ」と思ったり、逆に「恋しなくていいんだあ」と安堵して泣いたり情緒が騒がしいことになっています。

私はそういう流動的な自分を受け入れて、愛しています。


ところがどっこい、社会は、日本は、私の周りは、まだまだ私の「川の流れ」を止めようとしてくる。


父は私に義兄の友人をあてがおうとするし、母は「外国人でもいいよ」と謎の譲歩をしてくる。

※最近の母は私が「結婚して子供を産まなきゃ生きてて意味ないか?杉田水脈が言うように生産性がないか?死んだ方がいいか?」と怒り泣きながらfu●kを叩き付けたらあんまり「恋人」とか「結婚」とか言わなくなりました。

ブイ✌🏻

ただ、家族はまだ愛娘(愛されてる自信はある)への「心配」という情からそういうことを言ってくるので、「私は頑張って自分で自分の道を見つけるよ」と精一杯伝える努力ができる。


ただ例の壮年の男性、通称「おじさん」はどうでしょうか。


最初は「彼氏云々」の話題を振られても「自分より若い子、後進のためにここで踏ん張らんと」と思ったりなんかして。

「結婚だけが幸せじゃないですよ」

とか

「私は私を大事にしてるんで大丈夫です」

とか言ってたんです。

でもダメなんだなこれが。

馬耳東風。

馬の耳に風吹いたらヒーンブルルッぐらいはするだろうけど、おじさんは強い。

仁王立ちで死んだ弁慶の如き体幹で小娘のことばを受け流す。

母にしたように泣いて怒りながら

「結婚しなきゃ私の人生無意味ですか?!??!」

てキレたら多少はグラッとするだろうけど、グラッとするだけでおじさんの価値観が変わるわけでなく、ただ私が「ヤベー奴」という噂が広がるだけでしょう。

まあそれは別にいいけど。

ただ、そんな体力とか気力を価値観化石のおじさんに使いたくなくなっちゃった。

残念ながら私はおじさんの化石を掘り起こして現代に蘇らせようという気概のある科学者ではない。

価値観化石おじさんたちのジュラシックパークを作るほどおじさんたちに興味もなければ時間もないのです。

私は私を愛しているので、私自身や私を大事に思ってくれている人、家族や友だちのために時間やことばを使いたい。

彼ら彼女らに私の「川の流れ」を受け流してもらうためなら頑張れる。

彼ら彼女らの「川の流れ」を止めないためになら頑張れる。

言うなれば、私のガワだけを、「若い」「女」の部分だけを見ている人間に対してあれこれ手を尽くすのに疲れてしまったんです。

あ〜あ。

 

今ではそのおじさんには「早く彼氏作りたくて〜」とか「子どもは多い方がいいです」とかウルトラ適当なことを言って心の消費電力を節約しています。

 

表面上は楽しくおしゃべりしながらも、日々変化する私の性的指向を、私自身の深いところを知ってもらいたいと思うほど、私はあなたに関わりを持てないという無言の断絶。

 

でもあんまり同調しすぎると私の自尊心が削れるので、時々「映画の話をしましょう!」とおじさんのお口の方向を強引に曲げたりします。

最近身につけた処世術、「臨機応変」。

これもまた一つの「変化」かもしれないね。

 


まとめ

今回はふたつの「変化」のお話がしたかったんです。

・私は毎日変化する

・変わらない人もいる(ので頑張りすぎない)

 


これにて私の「変わった/変わらなかったこと」を終えたいと思います。

 

ところで、毎日変化する私と毎日成長していくベビー、おそろだね。

私もまだまだそういう意味ではベビーなのかもしれません。

赤ちゃん人間。

「踊る赤ちゃん人間」は名曲です。

人は裸で 生まれた時は 誰も愛され 同じはずが
どうしてなんだ 生きていくうちに 運命は別れ むごいくらいだ

人の目見たり 見れなかったり 恋を知ったり 知れなかったり
それなら僕は いっそなりたい 死ぬまでベイビー 赤ちゃん人間

https://j-lyric.net/artist/a002b56/l019827.html


明日16日は

GOさんがドイツに移住されたお話を

なっちさんがBLを猛然と読み出したお話を

ぼさんぼんさんが商業BLに沼ったお話や家族のお話を

上げられるようです!

 


不詳私もやおいの末席に身を置いているのでBLの話は楽しみですし、ドイツ移住という大きな変化は読むだけでドキドキしそうです…。

 


では引き続き、はとさん主催のぽっぽアドベントをお楽しみください!

私も読めてないエントリをじっくり読ませてもらお〜✌🏻