2025年に手元に来て良かったもの(生活、あるいはそれ以外)
2025年の半分は例年に比べると慎ましやかな購買活動だった。
まあ、引越しを3回行ったせいで貯金が全額吹っ飛んだというのは大きい。
そんな、あっちへこっちへの暮らしで安定しない私の手元にやってきたもの。
その中でも良かったなあと思うものをいくつか。
良かったコスメ
ラ・メール
ザ・リップ ボリューマイザー シアーグロウ

これは友人から誕生日プレゼントで頂いた。
リッププランパーはCipiCipiのガラスプランパーを使ったことがあるだけで、そして残念ながらプランプ効果や保湿感を感じることができず「ほ〜〜〜」のアイテムだった。
それを覆したラ・メールのこのボリューマイザー。
唇の縦皺、というものをあまり意識したことがなかった私を「縦皺が無いってこんな気持ちいいの?!」と驚愕させた補修力。
無くなってから気付くものって、大切なものだけじゃなかった。
縦皺、あったんだ。
このボリューマイザーをメイクの初めに塗っておくと、仕上げのリップまでの間に皮の硬い塊、皺をなきものにしてくれる。
硬くなった唇の皮の針山でリップスティックが削り取られることもなくなり、心なしかLAKAのティント残りも良くなった気がする。
あと、甘いナッツのような不思議な香りが面白い。
良かったバッグ
LASTFRAME
KYOTO METALLIC MARKET BAG MINI (STRAP) / DARK SILVER × BLACK

ラ・メールのリップを贈ってくれた友人の
「レザーはもう日本の夏を耐えられない」
という言葉に深く頷いて入手したラストフレームののびのびバッグ。
のびのびとは言えど、縦ににょーんとは伸びないし、膨らみ方も不細工では無い。


二つ折り財布、エコバッグ、ミニボトル、常備薬ポーチ×2、ハンカチという外出への恐怖がデカい私の最低限の荷物もなんなく入る。

全身黒ずくめになりがちな私のスタイリングに馴染みながらバッチリ輝くシルバーラメもかなりお気に入りだ。
カラー展開も豊富なので、ビビッドなバイカラーアイテムも追加したい気もする。
このバッグも友人が持っていたのを良いなあ、と思って目星をつけていたので、お買い物上手が身近にいるととてもありがたい。
KYOTO METALLIC MARKET BAG MINI (STRAP) / DARK SILVER × BLACK
良かったぬいぐるみ
THE MONSTERS LABUBU
Big into Energy

言わずと知れたラブブ。
この子はHAPPINESSと申します。
今年の9月ごろ、前二項目で登場した友人と遊んでいる時に「ラブブすごいよなあ」と言われ、思いっきり知ったかぶりをした。
たぶん、聞き取れてもいなかったと思う。
「あー、ンブブね。人気よな」
みたいな取り繕いをした気がする。
帰宅後、何気なくンブブ?マブブ?なんだっけ、と調べたら、あらかわいい。
ふあふあでパステルカラーで、お耳が長くて悪い顔をしている。
かあわいい。
女の子なのね、性別とかある世界観なのね。
と思いながら購入方法を調べたところまず入店抽選があり、購入順も運任せと来た。
何度か挑戦したのち11月の入店抽選に当選し、最終入店時間の回でギリギリ一つ購入できた。
私の二人あとのお客さんで売り切れていたので、本当に手元に来てくれてありがとうね、という気持ちだ。

このちいちゃなおててを見てください。
かわいいですね。
甥っ子さんの赤ちゃん時代を思い出す。
愛おしいという以外に言葉が見つからない。
甥っ子さんにベビー服を買っていたように、今はラブブに服を着せてやりたい。
自分で作るか、外注するか悩んでいる。
(甥っ子さんは今やモンベルのでかいリュックも背負えるぐらいになった。服を送るのは卒業かなあ)
良かったジュエリー
HIROTAKA
DOROSERA ダイヤモンドリング

ずっと欲しかったHIROTAKAのドロセラシリーズのリング。
値上げ直前に「やっぱどう考えても欲しい!!!!」という気持ちで駆け込んで、今はお出かけの時の頼れる相棒になっている。
指に巻き付く食虫植物のような有機的なフォルム。
寄生獣のミギーの瞳のように輝くダイヤモンド。
このシンプルながらも絶妙に妖しいデザインが本当に飽きない。
単品でもじゅうぶんに存在感があるが、こちらもヘビーユースのポメラートのブラウンダイヤのサッビアリングと重ねてもゴージャス。

よく拝見しているジュエリーアカウントの方を参考させていただいたが、この組み合わせは本当にゴージャスで着けるたびに新鮮に喜びが湧き上がる。
着けるたびに喜びが湧き上がるジュエリーというのは貴重なので、購入依頼ずっと嬉しい。
良かった家電
電気ケトル CK-SA06 GZ

短い一人暮らし時代から出戻り実家現在まで大活躍の電気ケトル。
言わずもがなだが、本当に湯沸かしへのハードルが無くなった。
ミルクパンに水を張ってコンロに置いて点火して沸騰するまで見守る、だけのことが意外とダルい。
ケトルに水を入れて台に置いて待つ、というケトルの手順の少なさと安全性が山となっていた紅茶のストックを激減させてくれた。
スープも飲むようになった。
ジュースをやめて茶を飲むようになった。
よく知らないが、温活になっているのでは無いだろうか。

あと、このダスティーグリーンがかわいい。
限りなくデフォルメされたゾウのイラストもゾウへの敬愛が感じられて良い。
クジラとゾウを敬い愛しているので、シンパシーを感じる。
良かった本
- 『鋼鉄紅女』シーラン・ジェイ・ジャオ
- 『目の眩んだ者たちの国家』キム・エランほか
- 『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェン
- 『すべての、白いものたちの』ハン・ガン

一つに絞れなかったので、フィクション、ノンフィクションから四つほど……。
『鋼鉄紅女』シーラン・ジェイ・ジャオ
襲い来る怪物たちに立ち向かう、巨大変形ロボに乗り込む男女パイロットの大活劇。
という設定をベースに、ロボに乗るたびに使い捨てにされ、国の供物になっていく女たちを救うために血に塗れながら覇道を拓いていく主人公・則天(ゾーティエン)が世界の仕組みと取っ組み合いし続けるという、どえらく敵の多い戦記になっている。
家族の安寧のために娘を国に差し出す両親、意に沿わぬ兵士を従わせるためにアルコール漬けにする組織。
我が子に性接待をさせて財を積み上げる大企業、国民の命をどう使えば自分たちが安全で豊かに生きられるかばかりに苦心する政府。
これら全てと戦い続け、数多の血を流した末に瓦礫の頂上に立った主人公が見た世界の真実とは。
続編の『天空龍機』が今夏発売され、一気に読み終えたが、すんげえよ。
本物の怒りとスペクタクルが、ここにある。
『目の眩んだ者たちの国家』キム・エランほか
セウォル号事件であらわになった、韓国という国家の傾き。
十二名それぞれの視点から語られる事件の輪郭が、船に乗っていた人々を決定的に"沈めた"のは社会と国家であるということを浮かび上がらせる。
セウォル号事件を取り巻く絶望と悲痛は、韓国の人々のものである。
それでも、傾く国家は決して他人事では無い。
以下は、読みながらブルースカイに投稿していた雑感だ。
「船の傾きが誰か、特別な人間にとって利益になるなら船員は船の傾きを維持することに専念する。あるいはその愚かな忠誠心か欲望によってもっと船を傾けるだろう。そのせいで乗客が幾人も甲板から滑り落ちて海の渦に引き摺り込まれていったとしても」
このたとえが喉につっかえて嘔吐感すらある>『目の眩んだ者たちの国家』
傾きに慣れすぎた乗客は「落ちて行ったあいつが弱いのだ」というかもしれないし、「落ちないよう踏ん張る努力を自分はしている」というかもしれない。
実際にそれは「節約術」「投資」「貯金」「セルフケア」という言葉に形を変えてよく見聞きする。私たちが既に棄民であるということに薄っすら気付きながら。
セウォル号にまつわる感情や経験を私が簒奪するわけにはいかないけど、不正義によって子供たちが死んでいくのを、ただ茫然と見ているしかできない恥ずかしさ、申し訳なさ、そして子どもたちを殺した不正義を支えてきた(今なお支えている)大勢のうちの紛れもない一人であるという罪悪感は共有されざるを得ず、読み進めるのがとてもつらい>目の眩んだ者たちの国家
それでも、帯にも書かれているファン・ジョンウンの言葉が「絶望」という容易な諦めを許さない。
どれほど簡単なことなのか。
希望がない、と言うことは。
この世界に対する信頼をなくしてしまったと言うことは。
「絶望」してその場を離れ、目を背けることができるのは「絶望」の外側にいる人間だけだ。
諦めることができるのは、諦めても生きていける人々だけだ。
様々な角度から語られる傾く国家は紛れもなく、今私たちが立っているまさにここのことでもある。
最後に2026年に向けて、私自身を監視する言葉として本文から引用する。
"平穏さの裏側では弱者たちの命をすりつぶす惨劇が繰り返される虚構の安全共同体、そうやって一部の者たちを集団的に排除する一方で、生き残った者たちは安全な国という幻想を信じ込まされる"
"日常の平和は、敵の武力侵攻によってではなく、生命の安全保障の体制の不備と国家の空白によって内部から脅かされる。"
『目の眩んだ者たちの国家』収録、チョン・ギュチャン著「永遠の災難状態」
『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェン
本屋をぶらつくと思いがけない本を手に取ることがある。
今年唯一の「たまたま立ち寄った本屋で見つけてなんとなく買った本」がこの『ACE アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』だ。
アロマンティック・アセクシュアル(aroace)である、と自覚してからさまざまな考え方や道筋にアクセスしやすくなったが、それでも未だに多くの人と同じ生き方が出来ないことに、呼吸が浅くなるような感覚に陥ることがある。
恋愛や性愛を経験できたら楽になれたろうにな、と思うとき、この本を思い出すことで「恋愛や性愛を経験できないことで苦しむ理由」が私の外側にある、ということも同時に思い出す。
恋愛と性愛が制度に組み込まれ過ぎている、ということ。
社会は「二人以上で生きること」を前提に作られている、ということ。
そして何より、恋愛と性愛は社会のためにあるわけではない、という当然の事実が明記されていることは、誰しもの苦痛を取り除く鍵になる。
恋人になる、ということはセックスの確約ではなく、セックスは誰かの価値を高める機能を持ちはしない。
社会やコミュニティの視線が性行為に本来ありもしない特権を与え、恋愛の当然一緒にあるべきものだと私たちに錯覚させている。
んなこたない、ということが、様々なセクシュアリティの人々へのインタビューや広く集められた文献やコンテンツの解読によって分かりやすく展開されている。
わざわざ読むのはちょっとな、という人も、以下の点だけでもちらっと見ていって欲しい。
『アセクシャルから見たセックスと社会のこと』ゆっくり読み進めて最終章ですが、アセクシャルに限らずアロマンスにもポリアモリーにも、もっと言えばアロー(性的惹かれを経験する人、性愛者)にも読まれて欲しい。捕捉範囲がめちゃくちゃ広い。
・恋愛×性愛を至上とする価値観は社会によって作り上げられたものなので個人レベルで解体していける
・セックスという"経験"はそれだけで人の価値を高めたりするものではない
・性行為への同意は「積極的にイエス」「望んではいないが相手が喜ぶならイエス」「本当はノーだが仕方なくイエス」ぐらいまで細分化できる=パートナー間においてもセックスを求める権利と応じる義務が発生するわけではないまた、トランスジェンダーは必ず恋愛と性愛を求めるだろう(そのために性の変更を望むのだろう)という馬鹿げた言説や、セックスを望むと"淫乱"と非難され、セックスを拒むと"保守的"と揶揄される人種やグループへの過度なセックスの規範化に対しても「これ変です!!!!!!」と明言されている
セックスの必要に迫られて悩むアローロマンス(恋愛的な惹かれを感じる人)にも、性行為の経験の無さをコンプレックスに感じているアロセクシュアル(性的惹かれを感じる人)にもぜひ読まれたいと思う一冊だ。
『すべての、白いものたちの』ハン・ガン
ここ数年はアジア文学に強く惹かれていて、その中でも韓国文学には多く触れている。
特に今年はキム・チョヨプのSFに漂う寂しさに慰められた一年だった。
キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』
— かこQ (@hontkn) 2025年11月6日
三本目の腕の移植を望む恋人。約束のために死を受け入れる異星人。同じ時間を認識できない最愛の姉。不可侵の「感覚」によって生じる断絶は理解や共感では埋められない。理解不可能性を受け入れ、記憶することが唯一のはなむけなのかもしれない。 pic.twitter.com/rCBSh5czSK
それでも『すべての、白いものたちの』を選んだのは、今更どうしようもない、だというのに今もまだ飲み込めない「死」というものとの向き合い方を新たに一つ教えてくれた教本となったからだ。
この本の中で語られる、もう居ない者への回顧と祈りは、実践しようとすると正直かなり難しい。
彼/彼女を思い出して、目の前に立ってもらう。
私が見た空を見て、歩いた道を歩いてもらう。
これを安易に試すと、その不可能さに挫けてしまう。
その恢復も、ハン・ガンの静かな文字を辿ることでやっと可能になる。
本屋で手に取ってペラっとめくったページの文章に「あ〜〜〜これは読みたい」と思った、その時の感覚のまま読み終えた。産着、雪、灰、骨、魚の腹。白いものたちは時に目を貫くように眩しく、時に驚くほど静かに佇む。動的な白と静的な白が生と死を繋ぐ全編が、もうここには無いもの(これからもあるはずだったもの)を追憶する礼拝堂のように機能する。
最初読み終えた時、この本のことを「礼拝堂」と例えたが、この本を読むことがそのまま、今はもう居ない人を思うことに繋がっていく。
そういった読み方すらも許す、誰しもに開かれた恢復の一遍だ。
良かった映画
羅小黒戦記2 ぼくらが望む未来
『すべての、白いものたちの』の読了後ちょうど始まった『羅小黒戦記2』でも、既に失われたものへの葬送と恢復の道程が描かれていた。

物語があまりにもスバン!と胸に突き刺さったので別途書き起こしてもいる。
ルーイエの人生から無惨にちぎり取られ、どこにも行けないまま取り残された幼い少女。
その面影は、ムゲンに救われたシャオヘイと重なり、無邪気に笑いながらワンピースの裾をひるがえす。
それは、ルーイエに訪れたかもしれない優しい「もしも」の世界であり、シャオヘイにもたらされた温かな日常である。
ルーイエ自身にすら救うことの出来なかった少女が、救われた少年を通して「もしも」の世界を歩くことができた。
師の手を握り、撫でられ、甘えて笑う、あり得たかもしれない、それでも存在しない世界の幻。
この優しい幻影は、長い時を経てようやく訪れた少女時代への弔いなのだと思う。
弔うことで、人は別れを認識できる。
歪な形で大人にならざるを得なかったルーイエに僅かに残っていた少女の面影は、痛みと共にしか蘇らなかった過去は、シャオヘイを通して昇華され、街角へ消えていく。
『羅小黒戦記2』は戦争映画だと評したが、同時に類稀なる「恢復」の物語でもある。
少女姿のルーイエに、ハン・ガンの著書『すべての、白いものたちの』を思い出す。
著者であるハン・ガンは、自分が生まれてくる前に死んだ姉を「もしも」の世界に立たせる。
生後2時間で息をしなくなった姉がもしも生きていれば、自分は生まれてこなかった。
自分のいない「もしも」の世界で生きる姉の足取りを描くことは、祈りのようだと語られている。
失われたものを今あるものに重ね、生かすことは「もしも」の追憶であり、失われたものへの別れの時間を与える。
さようなら、をちゃんと伝えられることは、何よりの祈りで、恢復である。
己の少女時代に別れを告げられたルーイエにも、ようやく恢復がもたらされたのだと思う。
羅小黒戦記がアニメーションとして卓越していることは言を俟たないが、戦争遺児が自らを救う恢復の物語としても、比類のないものだと心の底から思う。
こんな物語に出会えたことに感謝しながら、こんな物語が国境を越えてやってきてくれたことの当然じゃなさにも目を向けたい。
傾く国家を立て直す努力もせずしがみついたままその内にひっくり返ってしまえば、手元に来て良かったものなんか一つも無くなるだろうから。