お時間です

生き延びがち

チェリまほ、2020を繋ぎ止めてくれてマジ感謝

2020、今年中に伝えたかったので突貫工事、アクセルベタ踏み文章で行かせていただきます。

 


『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』

豊田悠原作漫画、通称「チェリまほ」の実写ドラマが10月から始まりました。

BL漫画の実写化です。

そう、BLです。

ボーイズラブです。

深夜枠です。

木曜25時からでした。

放送終了後の今、一つだけ願いがあるとするならば、ゴールデンタイムに来て欲しかった。

きみ(チェリまほ)は真夜中に、ひっそりと放送されるような器じゃなかった。

素晴らしいドラマだった。

当たり前のように家族で観て感想を言い合う、どうかそんな日が来て欲しいと願わずにはいられない、そんなドラマだった。

たった30分、12話。

時間にして6時間弱。

その短い時間の中で、私が、そして私だけじゃない多くの人が、たくさんの贈り物を受け取ったと思う。

題材はボーイズラブ、つまり同性愛。

およびアセクシャル、アロマンス。

恋情、愛情、欲情、友情。

エトセトラ。

今まで「禁断の」だの「普遍の」だの、手垢のついた惹句でおもちゃにされたり塗りつぶされたりしてきたかけがえのない感情、生き方、セクシャリティを、くすんだオブラートで包まずにフレッシュにお届けしてくれた。

ありがとう電波!

届いたよ、物語!

 


めちゃくちゃ抽象的に書き始めちゃったんですが、大きく言えば本当に「感謝」。

私はBLを長年愛していますが、その一方でBL界隈に漂う「隠すべきもの」「恥ずかしいもの」という無言の規範に苦痛も感じてた。

昔は私自身「ふじょし」であることを家族に隠して、目の届かないところで楽しむのが正しい「ふじょし」と「BL」の関係性だと思ってた。

でもさ、ここ数年でようやく気付いた。

よく「BLはファンタジー」なんて言うけど、ボーイズのラブはファンタジーなんかじゃねえんじゃねえか?

ボーイズは事実、ボーイ&ガールのようにラブし合ってて、生きてんじゃんか。

「ファンタジー」なんかじゃないじゃん。

少女漫画はどこでも読めるのに、ボーイズラブは隠れなきゃならないなんて変ですわ。

20歳頃の気付き。遅くてすまない。

(まあBL漫画に性描写が多いのは事実で、そこはゾーニングが必須だとは思う。ただ、コンビニのオープンスペースからエロ本が消えるのも一緒にな)

それ以降、「BLは隠れよう」みたいなのに違和感を覚えて過ごしてきました。

しかし、「ボーイズラブが売れる」となってくると今度は「禁断の」から「普遍の」に流れが変わった。

確かに愛は普遍よ?

でも今まで散々、愚かな私を含めて散々ボーイズラブを「異質なもの」として扱ってきたのに、今度は「普遍」というラベルを貼るんか。

同性婚もろくすっぽ前進しないこの国で、環境で、口先だけの「普遍」。

「みんな(みんなって誰?)に理解してもらえるような『普遍性』」が欲しかったわけじゃないじゃんか。

話は逸れるけど、選択的夫婦別姓の否決も「理解が得られない」だったよね。

つまり「普遍」ってことばも「理解が得られないモノ(BL)」を受け入れてもらえるようにするためのシラけたラベリングな訳ですよ。

要らね〜そんなもん。

私の個人的な信条で「理解より先に制度」があるんですが、なんでエブリワンの許可がないと「普通」を手に入れられないんですか?って。

「普遍」を押し付けといて「普通」は与えない。

残酷すぎるやろがい。

 


なあ、チェリまほ。

きみは「普遍」なんかじゃなかったよな。

人と人の心が繋がる瞬間をたくさん切り取ったヒューマンドラマで、でも間違いなくボーイズラブで、ゲイロマンスだったよな。

作中での「男同士だから(良くない)」という描写はおそらく2回。

安達が黒沢の想いを受け止める時の「俺たち男だし(大変だと思う)」。

六角が柘植にキレた「湊を避けてるのはゲイだからですか!!!」。

決して「男同士」ということを「負の要素」として描かない、でも(キツい)現状に即した現実的な会話になる。

これが凄かった。

このバランスが。

ボーイズラブを「禁断」にもせず、ましてや「普遍」にもしない、絶妙な現実とロマンスのバランス。

主人公の安達は「男だから」ではなく「自分に自信がないから」同性の黒沢と恋を進められない。

でも六角は柘植に「ゲイだから避けるなんて最低だ」と言い切る。

ちゃんと、描いてるんだよな。

個人的な繋がりと、社会的な分断を。

そして、チェリまほが描くボーイズラブ、ゲイロマンスと同じくらい感謝してるのは、恋愛以外の愛もちゃんと「愛」カウントしてるところで。

藤崎さんよ…。

大好きだよ…。

藤崎さんが「恋愛に興味がない人」として描かれた回、私はゲロゲロに泣きました。

最終回で六角と"恋に目覚める"なんてこともなく。

ありがたかった。

なぜなら私も「そう」だから。

また個人的な話なんですが、現時点での私の性的指向アセクシャル、およびアロマンス。

同性異性に恋愛感情を抱かない。

それがね〜、生きづらい。

こっちで文句タラタラ書いてます。


何より「絶対許さん異性愛規範(怒怒怒)」となったのは、私の非常に素晴らしい友が「誰にも恋できない自分は何かが欠如してるのかなと思うことがある」と言ったこと。

というか、言わされたこと。

恋しなきゃ、パートナーがいなきゃおかしいか?

欠落してるか?異常か?努力が足りんのか?ああ???

そんな怒りと所在感の無さに、「まあここにいなよ」と着地点をくれたのは「アセクシャル」や「アロマンス」といったラベルだった。

直近で読んだチェリまほのインタビューで「ラベリングの暴力性」が俎上に上がってたけど、生まれた瞬間、既に私たちはその暴力にあってるんですよ。

「女の子/男の子」の「異性愛者」だとラベルをベタっと貼られてるんです。

なら、違うと感じたら剥がしていいでしょう。

別のを貼ってもいいでしょう。

「いつか異性を好きになるかもしれない」

「いつか恋するかもしれない」

確かにね。

でも他人のラベル、勝手に剥がすんじゃないよ。

自分で貼ったラベルぐらい、貼ったままでいさせて頂戴ね。

 


でも、藤崎さんも恋愛はしなかったけど、十分以上に人を愛する人だった。

安達と黒沢を心から応援して、「お節介でごめんね」なんて言いながら優しさを何度も差し出してた。

柘植の「親友のピンチに駆けつけないほど腑抜けてない」も堪らなかった。

六角も、友だち(湊)のために歳上に本気で怒ってた。

これ全部、「愛情」なんだよ。

チェリまほは安達と黒沢のラブストーリーではあるんだけど、恋愛をそれ以外の「情」の上に置かなかった。

恋愛じゃなくても、どんな形でも人は人を愛する。

その姿は愛おしくて、暖かくて、何物にも変えられない。

それを描いてくれて、心より感謝御礼奉ります。

 


そろそろ2020年が終わるので乱文になりましたがここら辺で一旦終えさせていただきます。

 


チェリまほ、ありがとう。

たくさんの生き方があるって、ちゃんと見てくれてるんだって、そう思えるだけで救いになるんだよ。