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生き延びがち

HiGH&LOW THE WORSTを観てジェラルド・バトラーからチャニング・テイタムになった話

はじめに

このエントリは、いつも本~当にお世話になっているmy dearestはとさん主催のぽっぽアドベントに寄稿させていただきます。

担当は12月12日。

よろしくお願いします。

アドベントの共通テーマは「私が動かされたもの」。

動かされたのが心でも、価値観でも、自身の存在そのものでもよい、ということで、では私は何にどう動かされたかというと。

「HiGH&LOW THE WORSTによってジェラルド・バトラーからチャニング・テイタムに動かされた」

である。

ハ?かと。もしくはア?かと。

ご存知の方が多いとは思うが、ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムもハリウッドの第一線で活躍中の俳優。

点Pでも点Qでない。

ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムの間を秒速15cmで動く謎の点Aの話はしない。

これから私の「映画の見方」の話をする。

ちなみにだが、HiGH&LOW THE WORST自体については、今回はあまり多くは語らないでおく。

まだドラマを走っていないので…

推しジャンルに対して縮地をしたくないなって、アタイ、これでもオタクだからさーーー・・・

 

ところで、『エンド・オブ・ホワイトハウス』と『ホワイトハウス・ダウン』という作品をご存知だろうか。

概要を説明をすると、両作とも「テロリストに占拠されたホワイトハウスから大統領を救出する」というのがメインストーリーで、なんと、奇しくも同じ2013年に公開された。

もうこの情報だけでおもしろくないですか?

今なお

どっちがどっちの映画だったかわからん」

「1年に2回も占拠されるホワイトハウスのザル警備は泣ける」

ホワイトハウスちゃんかわいそう」

「俺のエアジョーダン」

といった喜びの声が聞かれるこのふたつの作品。

実は、決定的な違いがあった。

それは

「『着る』ジェラルド・バトラー

「『脱ぐ』チャニング・テイタム」。

ひらたく言うと、物語が進むにつれて主人公ふたりの装いが逆ベクトルに変化していくのだ。

 

「着る」ジェラルド・バトラー

エンド・オブ・ホワイトハウス

元護衛官(大統領のボディーガード)の主人公マイク・バニングジェラルド・バトラー)は、とある事情からシークレットサービスの任から解かれ鬱屈とした日々を送っていた。しかしそんな折、ホワイトハウスをテロリストが襲い、大統領以下閣僚数名ががとらわれてしまう。使命に突き動かされたバニングは単身戦場と化したホワイトハウスに乗り込み、鍛え上げられた戦闘スキルをいかんなく発揮。その残忍なまでの無双ぶりはテロリストと観客を恐怖と狂乱に突き落としていく。

 

この主人公バニングジェラルド・バトラーだが、ホワイトハウス入り口では丸腰なのである。なにせ護衛官を退き、オフィスワークに従事していたので。ところが、このビフォーとアフターをご覧いただきたい。

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before

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after

 

アフター、重武装である。裸一貫(ほぼ)で突入したはずのジェラルド・バトラーが、いつの間にか重課金済みのアバターと化している。何が起きたのか。

このジェラルド・バトラーは、倒した敵から武器一式をどんどん収集し、テロリストの深部に近づくほどに装備を整えていったのだ。

このドレスアップはまことに見事。銃弾の雨の中歩を進め、殺意フルパワーで襲ってくる敵に立ち向かい、相手を倒すごとに経験値を得てアイテムを増やしていくジェラルド・バトラー

その姿は、日々さまざまな課題に向き合い、課題から新しい知見を得、他者の理論の上に己が見解を組み立てる私たちの姿に重なるところがある。

銃ではなく文字を打ち、ナイフではなく思考で物事を切り分け、装備ではなく参考文献を携え目的地を目指す。

私たちは文系のジェラルド・バトラーだったのだ。

そして実は、「映画を観る」という行為も、ジェラルド・バトラー的なムーブに繋がる。

映画を観るとき、私たちは映画を観る。当たり前体操。

ただ、それだけではなく、映画を通してその映画以外のものごとにも、意識・無意識にかかわらず視線が向く。

それは、自身の実体験だったり、それまで観てきた他の作品であったりするが、まるっとまとめると、それまで培ってきたありとあらゆる価値観と知識。

この監督のことだから、このシーンは社会へのメッセージだな、とか。

この演出は宗教と照らし合わせるとまったく別の意味になるな、とか。

社会は今こうだから、この映画はこういう見方ができるな、とか。

映画そのものがどれっほど架空のものであろうと、「映画を観る」のは私たちでしかないので、実は「映画だけを観る」ということはかなり難しい。

というよりむしろ、私たちが映画を観て泣いたり笑ったり怒ったりするのは、まぎれもなく私たちに経験や知識、ひっくるめて「人生」があるからだ。

なので、知識や経験が増えて、人生が豊かになるほど、映画を観るパワーも上昇していく。

まるで、徐々に武装していくジェラルド・バトラーのように。

ゆくゆくは私たちも大統領を救うのだろう。

 

「脱ぐ」チャニング・テイタム

ホワイトハウス・ダウン

元軍人のジョン・ケイル(チャニング・テイタム)はシークレットサービスになりたい。なぜなら愛娘が大統領の大ファンだからだ。そんな娘をホワイトハウス見学ツアーに連れて行き、彼女が政権に対して嬉々として意見を述べる姿を見守っている最中、突如として爆破テロが発生。その騒動で逸れてしまった娘を探すなか、テロの標的となった大統領を守るというミッションを偶然課せられてしまうのだった。

 

チャニング・テイタムである。

マジック・マイク』はご覧になっただろうか。

下画像参照。

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脱いでいる。

男性ストリッパーの映画なので、まあもちろんみんな脱ぐが、チャニング・テイタムはその中でもなかなかに脱ぐ。

着ているところから脱いでいく。

ここで『マジック・マイク』の話をすると宇宙の終焉まで話が終わらないので割愛するが、自己肯定と他者の尊重、「俺もお前もサイコー」という文字では簡単、実戦は困難なテーゼをストリップを通して描き切った傑作であるとだけは記しておきたい。

ちなみに続編『マジック・マイクXXL』はよりサイコーになっている。まれに見る優しい映画です。

話を戻す。

チャニング・テイタムは脱ぐ。

これは、驚くべきことに、『ホワイトハウス・ダウン』でも発揮される彼の権能である。

テロリストが跋扈するホワイトハウスを戦い進む中で、チャニング・テイタムは脱いでいくのだ。

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before

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after

なんで????????

驚くなかれ、最終的にタンクトップになる。

マジでなんで?????????

前述のジェラルド・バトラーは展開が進むにつれ武装を重ねていった。

そのおかげで事実、彼はより戦いを有利に進められるようになった。

チャニング・テイタムは違う。

戦いに身を投じれば投じるほどに、その身ひとつになっていくのだ。

当初着ていたスーツは度重なる爆発や銃撃でいつのまにか失われ、終わりを迎えるころにホワイトハウスに在るのは「チャニング・テイタムとちょっとした衣服」なのだ。

やっていることはジェラルド・バトラーと同じ。

なのに真逆の再臨をしてしまう。

美少女キャラなのか?(ソシャゲでは美少女はレベルアップすると露出が増えがち)

しかし、チャニング・テイタムは脱ぐ、からといって弱体化しない。

普通に強い。

というか、彼自身の能力と装備に一切因果関係がない。

チャニング・テイタムは彼自身の俳優としての魅力、肉体的な説得力、いわば独自の「チャニング・テイタム性」によって強さを保持している。

この「チャニング・テイタム性」はもちろん彼の経歴やトレーニングによって備わったものではあるが、前述のジェラルド・バトラーと異なり、より彼自身の本質に依存するもの。

チャニング・テイタムは先に紹介した『マジック・マイク』でもことさらに脱ぐ。

それはもちろんストリッパーとして女性を性的に喜ばせることを意図した行為。

しかし、チャニング・テイタムが脱ぐとき吹く風は、彼の肉体や精神を消費する空っ風ではない。

「俺は魅力的である。そのことは誰によっても損なわれず、また誰のことをも損なわない」という熱風。

チャニング・テイタムは「脱ぐ」という行為、彼の肉体=彼の本質を曝け出すという社会性の脱衣によって相手と自身に対して最大限の誠意を表現する。

服という「選んだ魅力」を拭い去ることで、自身の内に息づく「選べないがゆえの誠実さ」を露わにする。

チャニング・テイタムは知っていたのだ。

己の中には、その肉体に根差すに本質には、ただあるがまに世界に相対する力があることを。

 

 

十数年かけて私はジェラルド・バトラーになった。

これまでの人生で得た経験と知識で我が身を鎧うことを覚えた。

歴史や宗教を学ぶことで現在を知り、社会の歪さに向き合う力を得た。

フィクション・ノンフィクションに関わらず、対象と相対する手数が格段に増えたことは、まぎれもなく私の人生を豊かにしている。

心底、ジェラルド・バトラーになれてよかったと思っている。

そしてもっとジェラルド・バトラーになっていきたい。

 

そんな、押しも押されぬジェラルド・バトラーになった私の、ジェラルド・バトラーたるゆえんである装備を一瞬にして吹き飛ばした存在。

 

『HiGH&LOW THE WORST』

  

『HiGH&LOW THE WORST』を観た時、最初に私の言語野を埋め尽くしたことばは

「感謝」

だった 。

なんか、すっごいありがたくて、ほんともう、感謝した。

この時代に生まれてこれたこと、映画に携わった人、私が私という形と中身を持つに至ったすべての事象に感謝した。

なぜか。

「おもしろかった」からだ。

脚本がいい、演者がいい、音楽がいい美術がいい演出がいい。

それはようやく落ち着いてきている今だから言えることだ。

観終わった瞬間は、ただ、「おもしろかった」という感情に全身が包まれた。

知識と経験で武装したジェラルド・バトラーは、終幕後の劇場にはもういなかった。

そこにいたのは、感情むき出しで、裸同然の私だった。

私はチャニング・テイタムになっていた。

『HiGH&LOW THE WORST』を観て、私はチャニング・テイタムになったのだ。

 

 

ここでこの作品の内容について語るのは、冒頭でも述べたように避けたい。

ただ、どんな映画だったのか、それを示さないことには私がチャニング・テイタムになった理由が謎だ。

『HiGH&LOW THE WORST』は、なんというか、素直だった。

「俺は馬鹿だから分からない」という少年がいた。

誇りと名誉をかけた戦いがあった。

戸惑いながら変化を望み、受け入れる青年がいた。

てらいのない友情あった。

かっこいい音楽にあわせたかっこいいアクションがあった。

強さ、かっこよさ、楽しさを自然体で受け入れ、いつしか誰もが笑顔になっていた。

その「誰もが」に気づけば私も含まれていた。

自然体で、笑っていた。

 

知識と経験は、これまで獲得してきた装備は、いつの間にか脱げていた。

その装備は、『HiGH&LOW THE WORST』に必要ではなかったからだ。

というより、『 HiGH&LOW THE WORST』は私になにも求めなかった。

肯定も、否定も、解釈も、何も必要とされなかった。

『 HiGH&LOW THE WORST』は、

「俺たち、最高だろ?」

と無邪気に笑って見せるだけだった。

このときの『 HiGH&LOW THE WORST』の屈託のない笑顔を見つめる私の姿はまさにチャニング・テイタムだったことだろう。

私の中の、理論や知識や経験で鎧うことのできない感情、深層心理、イド、私が私である根本的な性質。

 

『 HiGH&LOW THE WORST』は私に何も求めないことで、ジェラルド・バトラーだった私に装備を下ろさせたのだ。

「タイマン張ろうぜ」とでも誘いかけるかのように。

タイマンに武器は必要ない。

ジェラルド・バトラーはスッとスポットライトから退いた。

代わりに光が当たったそこに現れたのは、むき出しで、素直で、語らない私。

選び、装うことのできない私の「私性」が露わになったとき、チャニング・テイタムとしての私が現れた。

鎧わなくとも、私はただ私として世界と相対することができる。

知識や経験がなくとも、何かを楽しみ、ただ愛することが、私にはできる。

そのことを思い出した瞬間だった。

私は、チャニング・テイタムだった。

 

 

おわりに

私はチャニング・テイタムになった。

しかし、それはジェラルド・バトラーではなくなったということを意味しない。

知識と経験を装備し砂塵の中を進むジェラルド・バトラーでもあり、また同時にそれらを脱ぎ捨て「私」と「世界」を裸で対面させるチャニング・テイタムでもある。

そして、チャニング・テイタム的なジェラルド・バトラーにも、ジェラルド・バトラー的なチャニング・テイタムにもなれるのだ。

なぜなら、武装する私も裸の私も、一本の線で結ばれたまぎれもない「私」だからだ。

そこで打ち明けるが、私はこの記事の中でひとつだけ嘘を吐いた。

ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムの間を秒速15㎝で動く謎の点Aの話はしない」

冒頭で述べた謎の注釈だ。

しかし最後にあえて撤回したうえで、こう結論づけよう。

私は、ジェラルド・バトラーチャニング・テイタムの間を秒速15㎝で絶え間なく動き続ける「点A」なのだ、と。

 

 

 

「HiGH&LOW THE WORSTを観てジェラルド・バトラーからチャニング・テイタムになったと思ったら実は点Aだった話」