お時間です

生き延びがち

『フェアウェル』生きるために、生かすために嘘をつく

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『フェアウェル』を観たのはちょうど1ヶ月前になります。

だいだいだ〜い好きなオークワフィナが主演と聞いて、去年からずっと楽しみにしていました。

オーシャンズ8』『クレイジー・リッチ・アジアンズ』の2作の女優としての彼女しか知りませんが、そんなんど〜でもいいっしょ!てぐらいの気合いで好き。

彼女の演技は最高。

どこがいいかと訊かれると、作品ごとに違うんですが、共通点を挙げるとするなら「自分の人生にいて欲しい」ような存在感。

あとラッパが彫られた右二の腕も大好き。

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そんな、私の中に置いてある「最高」の椅子に座り続けているオークワフィナが一旦その椅子から降りて、その場にあぐらをかいてこちらを見つめてくる、そんな映画『フェアウェル』。

 


あらすじ

主人公ビリー(彼女がオークワフィナで、幼い頃にアメリカに両親と移住している)の祖母の"ナイナイ"は末期癌で余命告知をされる。ところが本人には一切そのことは知らされない。

それを知るのはアメリカや日本に移住した親戚一同と医師のみなのだ。

彼らは癌のことを必死に隠し、ナイナイに優しい嘘を吐きながら、みんなでナイナイとの最期の時間を過ごすため、ビリーのいとこであるハオハオ(日本に移住している)の結婚式を急遽中国で執り行うという計画を進行させる。

ハオハオの結婚式のため、という建前で、親族がナイナイのために中国に再び集まることになるのだ。

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レビュー、というか私の話。

この作品は重層的で、「死を看取る」こと、「家族とは何か」、そして「カルチャーギャップ」の三つの要素がそれぞれ複雑に絡み合い、物語を紡いでゆく。

今から書くのは、一つ目の「死を看取る」ことになります。

正直私の心のデトックスになってしまうので、悲しい話は読みたくない、という方はここでおさらばしましょう。

ええ作品やで!ほんまに。

「アジア人(アジア系)」の、「女性監督」が撮ったこの作品が世界中で多くの人の共感を得、そして高く評価されたこと。そんな、意味と意義のある作品なので、ぜひ映画館でじっくりと観て欲しいです。

ではさよならの人、さよなら!

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※以下はかなりパーソナルな話を交えるので色々脚色します。

 

 

 

祖父が亡くなりました。

今年の初めから、「腹が痛い」と言い出した祖父。

コロナのこともあってあまり見舞いにも行けず、かといって過度に心配することもなく、私はのんびり仕事に行ったり映画を観たり。

ただ、普段から頑固で強がりな祖父が苦しいと訴えるので、両親が何度も様子を見に行って、そうこうしているうちに入院することに。

私は「良かった」と思いました。頑固で病院嫌いの祖父が入院なら安心だと。

でも、末期癌でした。

入院した祖父にはコロナ対策で会いに行けず、それはそうとして、まだ家にいた間にすら一度も様子を見にいかなかったこと。

祖父の死に対する後悔はこの一つです。

会える人には会っておく。

これ、すごく大事なことです。

人生の試験に出ました。

 

私、嘘を吐く

祖父の死は悲しく、寂しいものですが、もっと大きな後悔が、「嘘を吐いていた」ことです。

祖母は認知症で、物事がもうあまりよく分からないので、私の両親は祖母には祖父のことを詳しくは伝えていませんでした。

ただ、夫が入院して寂しい祖母からの電話を、深夜に一度だけ取ったことがあります。

父の携帯にかかってきていたのですが、祖母からだったので寝ている父を起こすのも忍びなく、勝手に応対しました。

祖母は「一人で寂しい。よくわけが分からない。早くお父さん(祖父)に帰ってきて欲しい」と30分ほど辛そうに話していました。

私はそれに「大丈夫やで、前もインフルエンザで入院したやん。すぐ戻ってくるから大丈夫。不安やんな、でも大丈夫やからな」と答えていました。

嘘です。

取り乱す祖母を落ち着かせるために、また両親からも身重の姉と祖母には詳しくは伝えないようにと言われていたので、「おじいちゃんは大丈夫」なんて嘘を吐きました。

姉に対しても「私もよう知らへんねん」と話していました。

嘘の積み重ねが祖父が亡くなるまで続きました。

それは、すごく短い間でした。

 


おじいちゃんが明日死ぬかも知れんのに、誰に何をいうでもなく普通に会社に行く自分。祖母や姉に嘘を吐く自分。

今でも現実味がなく、急に死を知らされた祖母や姉に対しては後悔を抱えています。

『フェアウェル』では本人を苦しませないようにナイナイの余命を知っている親族がナイナイに嘘を吐くことで苦しみを自分たちで背負い、それが中国では良いことだと、優しい嘘だとされていると語られていました。そして同時に、優しい嘘に相反する欧米の自己決定権についても話されていました。

私は圧倒的に後者を支持しています。自分のことは自分で決める権利があると強く思っています。

主人公のビリーもそうでした。

それでも私は、どうしてか祖母や姉に祖父のことを告げることができませんでした。

これが「直面する」ということだったのだと今では思います。

私は「自分は冷静で、基本的には正しい判断ができる」と思っていましたが、頭では分かっていても論理的に動けない場面がどうしてもあるのだと、この「嘘」を通してようやく思い知りました。

 


『フェアウェル』は、人のために吐く嘘が本当にその人のために、そして自分(たち)のためになるのか、というテーマをもはらみます。

相手の苦しみを軽くするため、傷つけないための嘘があるのは事実で、作品の最後には驚きの事実が判明します。

それでも、どんなに優しい嘘であれ苦しみを取り除く手段にはなり得ない。

嘘を吐く方か、吐かれる方か、どちらにせよ嘘で包んだ苦しみを抱える人がいる。

そんな優しい嘘を吐くのか、吐かないのか。

優しい嘘が正しいことなのか間違ったことなのか。

「直面する」まで分からない。

そのことを覚えておきたいな、と思った作品でした。

 

 

 


私のメンタルデトックスを最後まで読んでくれた人、ありがと〜ございました。

 

 

 

 

追記:「見送る」ことについて

祖父の死は寂しいものですが、たくさん働いてたくさん食べて呑んで、たくさん説教して逝ったので、祖父がこの世を去ったこと自体に痛みはありません。

呼吸器が外された病院で、ボロボロに泣いてたくさん惜しむことができたことも理由だと思います。

お葬式ではどちらかと言うと、ショックを受けている姉や祖母の介添えをしたり(前述の通り両親や私のせいで急に、なので)、喪主である父の手伝いをしたり、一生懸命祖父を見送る準備をしました。

つるつるの頭に触って、手を握って、お花をたくさん詰めて。

精一杯のお別れができた、それが今、祖父との思い出を悲しみで曇らせていない理由だと思います。

 


「一生懸命送ろう」と思うようになったのは約7年ほど前からかも知れません。

大学時代、友だちがひとり、亡くなりました。

急死でした。

自分の将来の目標のために運動や食事に気を遣い、勉強でも真面目すぎるぐらい真面目に取り組み、そしてお洒落や遊びも徹底的にこなす人でした。

私と遊ぶ時も事前に「私と行きたい場所マップ」を手描きしたり、誕生日プレゼントの袋を私の好みに合わせて手作りしたり、私含め、たくさんの友だちのことを、家族を最大限に大事にする人でした。

 


仲の良い共通の友人と

「最近あの人と連絡取った?」

「いやそういえばLINEしてないわ」

「授業出てないんやって」

「風邪かな〜。ほなレジュメ取っといたるか」

「うわ〜あの人のレジュメにメモ取るのレベル高いな…授業寝れねえ…」

「ほんまそれな。連絡ついたらお見舞いでも行こか」

なんてLINEをした数日後に亡くなっていたことを知りました。

映画を観終わって、さあ家族と合流してご飯いこか〜と開いたLINEを読んで声を失いました。

LINEで訃報を教えてくれた、上記の友人とは別の友だちに連絡の感謝を伝えて、家族と合流した後のことはもうよく覚えてません。

 


彼女に最後に会える日、その当日に訃報知らせてくれた友だちから「今日が彼女と会える最後の日だけど来る?」とLINEが来たんですが、なんとその瞬間は全く関係ない高校時代の友だちと遊ぶために移動している途中でした。

服装もラフだし、急だし、でも…。

と、迷ってる間に集合場所につき、遊ぶ予定だった友だちの顔を見た瞬間、アホみたいに泣き出してしまいました。

いきなり友だちが泣き出してびっくりしてる相手に理由を説明していると、最初に心配しあっていた友人から電話がかかってきて、その安堵にまた咽び泣きながら「一緒に彼女に会いに行こう」と話をつけました。

一緒に遊ぶ予定だった友だちには「用事済ませてくるから2時間ぐらい待ってて」とお願いしました。

今もずっと「なんで???」と思ってます。

その日は解散したら良かったじゃない…と思います。

ただ、たぶん、心の整理が全くつかなさすぎて、混乱して、「友だちと遊ぶ」という"通常の予定"だけは狂わせたくなかったのかなと、なんとなく思います。

友だちはメチャクチャ優しいので「分かった。待ってるから行ってらっしゃい」と送り出してくれました。

そして例の「一緒に行こう」と電話をくれた友人と合流し、式場で彼女に会いました。

 


部屋はご両親が「堅苦しいのは嫌だから」とすごく明るくて、彼女が好きだった曲が流れてて、ものすごく柔らかい空間でした。

でも、「最期に見てあげてください」と言われた私は頭が真っ白になってました。

以前一緒に遊んだ時に「似合う似合う!」とはやして、本人もすごく気に入ったと言って購入したワンピースを着ていたらしいのに、どうしても見ることが出来ない。

棺を覗き込んで、目は開いてるのに、硬直して何も見えてないような感覚でした。

そのあとは長居しても、ということでご両親と少しだけ話をして、友人と辞しました。

帰り道は友人と悔しい悔しいと泣きながら歩き、途中で別れ、私は元の駅に戻り待たせていた友だちと普通に遊びました。

やっぱり今でも「どういうスケジュールやねん」と思います。

でも、当時は受け止められなさすぎて、日常を取り戻したかったのかなと思う以外ありません。

 


後悔は、彼女をちゃんと見送れなかったことです。

「見てあげて」と言ってもらえたのに、一緒に買った服を着ていたのに、最後だったのに、どうしても彼女の姿を目で見て、覚えてあげられなかったことです。思い出せないことです。

今でもそのことを思い出すと悔しくて、情けなくてどうしても涙が出ます。

たった一つの後悔ですが、10年近く経とうとする今でもそのことが乗り越えられないでいます。

もし、あの時ちゃんと見送れていたら、今オリーブを見ても(おいしいオリーブのお店に連れてってくれる予定でした)、一緒に行ったお店屋さんに行っても泣きそうにならずに済んでるのかな、とも思います。

 


彼女の見送り以降、どんなに悲しくても辛くても、亡くなった方のお顔をしっかり見て、触れるなら触って、たくさん声をかけてお別れするようにしています。

祖父の葬送の時も、一生懸命見送ったという自覚があるからこそ、「悔しい」という気持ちはないのかも知れません。

 


いろんな人を見送ってきた個人的な経験則からのアドバイスですが、「どんなに辛くても頑張って一生懸命お見送りした方がよかですよ」です。

 


それでも耐えられない、乗り越えられないこともあるけどね。

 

 

 

追記:終わり

 

 

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー (字幕版)

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  • 発売日: 2017/08/18
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