初回感想
※ふせったーにもFilmarksにも書いたやつそのままです。
10月18日、公開から3日目、初見の感情。
帰宅した父に「自己犠牲の話?」と聞かれて「違うんだよな…己を犠牲にしてはいけないと分かっている男がそれでも未来に託す物語なんだよな…」と返した鬼滅映画帰りのオタク。
原作未読。
アニメだけ一周済み。
鬼滅ファンというほどでもない人間が、ツイッターやpixiv等で見かける姿で「あ〜、この人に"落ちる"んだろうな」となんとなく察していた男、煉獄杏寿郎。映画版鬼滅の刃、無限列車編。
観てきました。
マスクがぐちゃぐちゃになりました。
同行者の友だちに事前に「マスクの替え持ってったほうがいいから」てアドバイスもらっててよかった♪
よかった…よかったな……。
「いうて泣きはせんやろ」と括っていたタカ、元気?
元気少ないね。
人生において「タカを括っていい瞬間」なんてないんだよね、煉獄さん。
漫画読んでないので知らなかったんですよ上弦が来るなんて。
下弦消滅・列車崩壊時点で「え、なんとなく煉獄さん死亡編だとおもってたけどワンチャンセーフなんか?!」てぬか喜びしました。
あとで同行者にそれを言ったら「アニオリで生存ルートやと思った?」て煽られました。思ったッッッッ、、、、、思いたかったッッッッッッッッ、、、、、、、
アカザ(漢字分かんないですまた調べます)はいい鬼だね。強さに素直で。強さを愛してて。強さに誠実で。
でも煉獄さんはダメだよ。
煉獄さんはこれからずっと必要な人。
アカザ自身が言っていたようにもっと強くなってもっと輝く人だったんだよ。
でも煉獄さん自身は引かなかったね。
もちろん200人の人間と傷を負った後進たちの前で引くわけには行かなかったよね。
でも、煉獄さんは「引けない」のではなく「引かない」男だった。
自己犠牲に見えるそれは、しかし後ろに炭治郎たちがいるおかげで全く違う様相を呈していた。
煉獄さん自身、自分が「ここで死んでいいような人間」ではないと分かってたでしょう。己の強さを知るからこそ、己の死がどれほど鬼殺隊に影響を与えるかも分かってたでしょう。
それでも命を賭したのは、自己犠牲なんかじゃない。
善逸が、伊之助が、そして炭治郎がいたから。
『人より強い自分が果たすべき責務』を受け継ぐ子らの存在が在ったから。
未来に、炭治郎たちに託せると思ったからなんですよね。
だから煉獄さんの行ったことは確かな意思と遺志と覚悟の継承であって自己犠牲ではない。
彼は誰も、自分をも犠牲にしなかった。
なんて強い人なんだろう。
そんな彼が、炭治郎の前で膝をつき、静かに満足気な笑顔を浮かべるシーンでもう。もう。
心が叫んでた。
「『答えは得た」顔すんじゃねーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」(同じユーフォだね)
個人的な話で恐縮なんですが、私はくだんの「答えは得た」男に執着してるので、煉獄さんのあの笑顔は映画館じゃなきゃぶっ倒れてた。泣くとか越えてた。泣いてたけど。
そして母上に見守られて、破顔して、未来を信じて逝った。
ありきたりな言葉だけど、なんて強く清らかで美しい人だったんだろう。
己を信じ、子らを、炭治郎たちを、未来を信じてこの世を去った、炎。
鬼滅の刃、無限列車編。
ありがとうございました。
LiSAさんの「炎」の歌詞はエヴァQの桜流しに匹敵するやつですね。映画本編と補完し合う重要なファクター。
出会って、繋がって、そして未来のために手を離した彼らの悲しみと覚悟の鎮魂歌。
ぜひ https://youtu.be/4Q9DWZLaY2U で聴いて欲しいです。かじゆきも歌詞に関わってるので脳の中枢に効きます。
最後のLiSAさんの想いも含めてぜひ。
以下、論文風考察。
無限列車編初見日に煉獄さんにドッボンズブブでその日のうちに漫画全巻買い揃えて読み終えて2ヶ月。
文学部出身、あほほど論文書いてきたクセでいろいろ書きたくなっちゃいました。
突貫文章の自己満足。
まだまだ書きたいことあるけど最終巻前に上げたくて…
1.日輪刀
太陽-昼=善/闇-夜=悪
まず初めに、日輪、太陽は「正しさ」の象徴という前提を提示する。
旧約聖書の『創世記』冒頭では、「むなしく、やみが淵のおもてにあった」ために神は「光あれ」と宣った。
ここで、闇に対するものが光であり、夜と昼が相対するものであると明確になる。
また、宗教哲学においても太陽信仰はコンスタンティヌス帝によりキリスト教に連なる精神を持つとされ、至善なるものとして受け入れられた。
そのようにして、太陽、昼が善なるものとされるに従い、闇、夜は悪しきものという構図が定着してきた。
吸血鬼と鬼
太陽を厭い、血肉を食い、不老不死だが急所(首)を断たれると滅びる等、鬼の特性は吸血鬼のそれに近似するため比較がたやすい。
そして、他者の命を奪うという償えない罪を犯してきた鬼と吸血鬼の両者は、前項で述べた「太陽-正しさ」のもとでは生きていけない。
しかし日輪刀で滅された鬼の中にはなぜか邪悪さから解き放たれ、浄化されたようにも見えるものもいる。
日輪刀はその名の通り「日輪(太陽)」の役割を果たし、鬼に罰を下すと同時にその闇を祓い、浄化をももたらしているのではないか。
特に、上弦の鬼やネームドで描かれる鬼の出自は「正しい道では生きられなかった弱者」であることが多い。そのため、日輪刀で斬らることで浄化、「赦し」を受けることができたと言えるのではないだろうか。
本来、罪を断つことができるものとして「罰」と「赦し」があるが、太陽の性質を持つ刀である日輪刀は「罰」と「赦し」の両方を与えることができる。
アーレントは「罰は、介入しなければいつまでも続いてしまいかねない何事かに終止符を打とうとする点で赦しと共通している」としている。
つまり、「罰することができるものは赦すこともできる」と言い換えられる。
日輪刀は鬼の首を断ち罰することで永遠に続くであったであろう鬼の悪徳に終止符を打つと同時に、赦しをも与えていたと考えられる。
しかし、デリダは「赦し得ぬもの」、とりわけ「アウシュヴィッツ」といった人道に対する罪は罰することすらできないものとした。
そしてこの「赦し得ぬもの」を赦すことこそが真に人の手を離れた純粋な「赦し」であるとし、アーレントの条件的な赦し、罰することができるもののみが赦され得る、という定義を批判している。
デリダのいう「無条件的な赦し」によって「赦し得ぬもの」たり得る鬼舞辻無惨は赦されるのか。
それとも日輪刀は鬼舞辻に罰と赦しを与え、アーレントの言うようにその罪を断ち切るのだろうか。
あるいは、アーレントとデリダの赦しをも超えて、赦しも、罰をも授かることなく無惨に終わりを迎えるのだろうか。
最終巻を読むのが楽しみです。
2.鬼と鬼殺隊
表裏一体
吸血鬼は血を求め、鬼は人の肉を食らうという違いはあるが、実は食人という行為は聖なる行為とタブーの両方の性質を備えている。
キリスト教には「聖体拝領」というものがある。
イエスの血とされるワイン、肉とされるパンをいただく聖餐である。
一方で吸血鬼や鬼はそのまま人間の血や肉を口にする。
ここで、聖なる祭祀と化物の悪行が重なって見えてこないだろうか。
それは鬼舞辻無惨率いる鬼たちと鬼滅隊にも当てはまる。
鬼舞辻は鬼を作り、その中でも上弦と呼ばれる鬼たちは「正しい行いでは生きていけずに行き場を失った」ところを鬼舞辻に勧誘され、さらに悪行の道を進むこととなった。
しかし同時に、産屋敷に連なる鬼殺隊の隊員の多くも行き場を失い、鬼と戦うことでしか生きていけない者たちである。
特に階級の低い隊士の多くは準レギュラーとして登場する隊士「村田」のように、鬼に親類を殺され鬼殺隊に入った経緯が多いと推察される。
現代でも政府が自治を放棄したような福祉の機能しない場所では、親や大人の庇護を失った子どもの保護を担うだけの能力を持つのが軍隊だけである、ということがままある。
前述は紛争地帯に特に見られる傾向であり、鬼滅の刃の舞台である大正時代にも児童保護といった社会的なセーフネットを求めるのは難しい。
鬼舞辻の元に「正しく生きられなかった者」が集まったように、産屋敷によって「普通(家族や住む場所がある状態)に生きられなくなった者」が兵士としての庇護を受けている状態はまさに背中合わせである。
ここで煉獄杏寿郎とアカザのやり取りに注目したい。
「鬼になろう、杏寿郎」と誘うアカザ。
「何があっても鬼にはならない」と言い切る煉獄。
力は強く、しかしその力を正しいことに使う道を奪われ鬼になるしか生きる道のなかったアカザと、力は強く、そしてその力を正しいことに、人を守ることに使う道が既にあった煉獄。
彼らもまたコインの裏と表であり、環境というものによってlight(光、正しいもの)とleft(闇、残されたもの)に分かたれたに過ぎない。
「状況による」
最後にNetflixオリジナルアニメーション『ミッドナイト・ゴスペル』第1話「王の味」から。
ゲストで中毒医療のスペシャリスト、ドリュー・ピンスキー医師の言葉を引用する。
彼は大麻や薬物の使用についてのインタビューにこう答えている。
「良い薬とか悪い薬とかいう考え方は嫌いだ」
「薬は化学物質で良いも悪いもない」
「問題なのは人間と薬の関係性だよ」
「状況によるのだ」
そう、全ては「状況による」のだ。
「薬」を「力」に置き換える。
「力」はただあるもの。
ただそれだけで、良いも悪いもなく、ただそれが発揮される「状況による」。
煉獄が力を振るう状況、アカザが力を振るう状況。
ただその違いがあるだけだったのだ。
参考文献
・奥堀亜紀子「『赦し』とは何か:無条件的な赦しは必要なのか」2015 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81009413.pdf
・新田一郎「<論説>コンスタンティヌスと太陽宗教」1963 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249684/1/shirin_046_1_105.pdf
・市川ひろみ「冷戦後の戦争と子どもの犠牲」2014 http://lib.kyoto-wu.ac.jp/opc/recordID/handle/11173/1647?caller=xc-search
蛇足
最後に特装版パンフレットについてきたドラマCDの感想です。ネタバレです。
煉獄さん、「父と弟と、母の墓参りに行きたい」ていう夢が、あったんだね…。
当たり前だけど、彼自身が彼自身の人生を生きていく未来があったんだよね。
誰に託すことのない、彼だけの人生が。
「後輩を守るのは当たり前」「若い芽は摘ませない」なんていってたけど、20歳だったんだよ煉獄さん。
貴方も、成人はしてるけど、十分に守られるべき、未来を享受すべき人だったんだよ…。
先日見た映画『罪の声』で印象的な台詞があったんです。
「大人の都合で子どもの人生が狂うんです」
鬼殺隊の子どもたちは正しいことができた。
それでも鬼と戦い、傷つき、死んでいき、生き残ったとしてもその人生はもう「戦う前」には戻らない。
大人は、どんな大義があろうと子どもを利用してはいけない。
他人の、ましてや子どもの人生を道具にしてはならない。
それだけは、絶対に超えてはいけない一線であると、いち読者として忘れないようにと。